凪いだ海に駆ける疾風
はじめに


序章


第一部:潮の香の中


第二部:生き地獄



■序章■
 とある港町。まだ早朝だというのに、この海辺の市場は大にぎわいだ。体格の良い漁師達が大声を張り上げ、懸命に魚を売っている。
 そんな喧騒の中を、ひとりの少女が駆け抜けていった。
「おや、また脱走かい?」
 魚がほとんど売り切れ、暇そうにしていたある漁師が少女に気付き、声をかける。少女は慌てた様子で漁師に言った。
「しーっ! すぐそこまで追手が来てるんだから、そんな大きな声でしゃべらないで!」
「おお、すまんすまん。この商売やってると、どうしても声がデカくなっちまってな! だっはっは!」
 いかにも漁師らしい豪快な笑い方。そんな彼の声に紛れ、今度はかすかな声が聞こえた。
「お嬢様……! お願いですから……お戻りに……」
 途切れ途切れで聞き取りづらいが、少女はすぐに反応した。すごい勢いで振り返ると、雑踏の中に、息を切らして駆ける白髪の老人の姿が見えた。その後ろには数人の女性の姿も確認できる。お屋敷の執事と、世話係たちとすぐに分かった。
「もう、しつこいんだから!」
 漁師との話をやめ、少女も駆け出した。

 にぎやかな街を一層にぎやかにするのは、ここでは有名なお転婆お嬢様、ナギだ。彼女の父親は、世界でも名の知れた資産家である。“資産家ヨゼ”と言えば大抵の者は、あぁ、と言って頷くだろう。そして彼は良い心の持ち主でもある。莫大な財産を持つ金持ちは嫌な者が多いが、ヨゼは違った。稼ぐ金の殆どを貧しい人々のために使っている。彼の噂も、良いものばかりだった。
「お嬢様……ヨゼ様がご心配なさっております……早くお戻りを!」
 執事や世話係達の必死の呼びかけにも答えず、ナギは走り続けた。執事とナギの差はどんどん広まり、気付くと彼女から執事たちの姿が見えなくなった。
 やがてナギは足を止めた。そこは港の一番端。泊められた多くの船が波でゆらゆらと揺れている。
「はぁ、疲れた」
 ナギは呟き、堤防にすとんと腰をおろした。目をつぶり、潮の香りと音を楽しんだ。ナギはこの音を聞いて育ったので、ここにいるのが一番心安らぐときなのだ。
 そのとき、彼女は潮騒にまぎれたうめき声を聞いて、はっと顔をあげた。浜を見渡すと、ここから少し離れたところで数人の男が何かを蹴っている。
「何をしているの?」
「おや、ナギ嬢。……こいつ、漁船に忍んでやしたんです。魚を盗ろうとしたらしくて」
 側にいた二人の男が、再び浜に横たわる何かを蹴りつけた。するとそれはうっとうめいた。
「……何かと思えば、人じゃないの!」
 ナギは蹴られているものが人だと分かり、駆け寄った。金髪のまぶしい、顔立ちの良い青年だった。そっと頭を持ち上げると、青年は苦しそうにうめいた。
「こんなに血が出て……」
「ナギ様、あんまり近づかないほうがいいですぜ。顔に傷跡がたくさんあるし、良い育ちの者とは思えませんな」
「……人を見かけで決めてはいけないわ。それに、あなた達のような力のある者が大勢で蹴れば、死んでしまう」
 ナギは素早く青年の血を拭い、骨が折れていないか確かめた。打ち身はひどいが、幸い、骨折は免れたようだ。
「大丈夫……?」
 その声に反応してか、青年がゆっくりと目を開ける。アジュールブルーの瞳が朝陽に輝いた。
(……綺麗)
 その青年の第一印象として、ナギの頭の中に「綺麗」という言葉が刻まれた。美しい金髪と、海のような目からして、遠い異国の者だろうか。青年はゆっくりと体を起こした。
「無理しない方が……」
 ナギの心配をよそに、青年はしっかりと自分の足で立ち上がった。ナギがきょとんとして浜に座りこんでいると、青年がすっと手を伸ばす。ナギは戸惑いながらもその手をとった。すると、意外に強い力でぐいっと引っ張られ、青年の片方の腕が肩に回された。はっと顔を上げると、予想以上に彼と近くて、ナギは自分の頬が紅潮していくのが分かった。
「あ、ありがとうございます……」
「礼を言うのは俺の方です。危うく蹴り殺される所でした」
 青年がちらりと男達の方を見ると、男達はばつが悪そうにさっさとその場を離れていってしまった。男達が行ってしまうと、青年はにっこりと微笑んだ。
「ほんとうに、ありがとう。助かったよ」
「……あの、お名前は……」
 青年が答えようと口を開きかけた、その時。
「お嬢様!」
 振り向くと、執事と世話係たちが、肩で息をして立っていた。
「お嬢様、その方は……?」
「えっ? あっ……この人……なんて言うか……」
「このお嬢さんが、僕を助けてくれたんです」
 青年が素早く答えた。
「僕が、漁師たちに覚えのないことを責められていたところを、仲裁に」
「ああ、そうでしたか。……お転婆お嬢様が、ご迷惑をお掛け致しませんでしたか?」
 執事が冗談気に尋ねた。青年はやはり微笑むと、優しい声で言った。
「いいえ、とんでもない。僕のほうがご迷惑を……。さ、行ってください。みなさんをお待たせしては悪いから」
「は、はい……」
 ナギは青年が言うままに、素直に執事達の元へ歩みだした。
「……俺の名前は、ハヤテです」
 歩いてゆくナギの背中に、青年が言った。
「また、縁があればお会いしましょう」
 ナギは振り返り、微笑んだ。
「はい。……また、お会いましょう」
 ナギが行ってしまうのを見届けて、青年ハヤテはさっと顔色を変えた。爽やかな印象は消え失せ、まるで別人のようだ。目の色は鋭く、彼から出るオーラはまるで狩りをする鷹のように緊張していた。しかし、どこかあどけない表情も残っている。
 ハヤテは、ナギが血を拭ってくれた口の傷に指をあてた。
『人を見かけで決めてはいけないわ』
 少女の声が頭の中に響く。優しくて、温かい、言葉。
 彼は無表情のまましばらくその場に立っていた。しかしふと手を下ろした次の瞬間、ものすごい勢いで走りだした。まるで、邪念を、迷いを、振り払おうとするかのように……。



 ナギとハヤテが出会ったこの時、残酷な運命の歯車が、ゆっくりと、音をたてて回り始めた。
 この運命の行き着く先は、誰も知らない――。
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