凪いだ海に駆ける疾風
はじめに


序章


第一部:潮の香の中


第二部:生き地獄



■1-3#不安■
「ナギ様、いつまでここにいるおつもりですか。もう日が沈みますよ」
 厳しい顔つきの男が、砂浜に座り込んだ少女に話し掛けている。
「ヨゼ様が心配なさいます。そろそろ帰りましょう」
「いいじゃない、別に。パパが外出を許可してくれたんだしさ」
 ナギは沈んでゆく真っ赤な夕日を眺めていた。
「綺麗だなぁ。ねぇ、そう思わない?」
 守護の男は苦笑して、ため息をついた。
「もちろん綺麗だと思いますよ。この町は、どこから何を見ても美しい景色ばかりです」
 ナギは守護の男を見上げ、また夕日に目を戻した。
「ナギ様、ご主人様と奥様はこの風景を見て、ナギ様の名前をお付けになったのですよ」
 守護の男がおもむろに口を開いた。あまり自分から喋る事のないこの男が、急に語り始めたので、ナギは驚いてしまった。
「ここの海は、だいたいこの時間は風がなく、波が穏やかです。風が止み、波が穏やかな事を凪ぐ、と言うらしいのです。ご主人様と奥様は、この海のように美しく穏やかな子に育ってほしい、という思いを込め、[ナギ]という名前をお授けになったのです」
 ナギは嬉しかった。残念ながら穏やかな性格にはならなかったけど、こんなに素敵な名前をくれた両親に感謝した。そして今は亡き母に、父さんを大事にするよ、と誓った。
「……じゃあ、そろそろ帰ろうか」
 ナギが立ち上がったとき、浜で何かが光った。
「……!」
 ハヤテが、砂浜の上をゆっくりと歩いている。
「ハヤテ……くん」
 ナギに気付くと、ハヤテは少し顔を赤くしたように見えた。夕陽のせいだろうか?
「こんにちは。今朝は、どうも」
 ナギは優しく微笑んだ。
「いえいえ。……もう、傷は痛まないの? 治りが早いわね」
「……ナギ様、この青年は?」
 守護が怪訝な表情を浮かべ、ハヤテを見る。ナギは慌てて守護にぶんぶんと手を振った。
「この人は、決して怪しい人じゃないわ」
「今朝、彼女に助けてもらったんです。ハヤテと申します」
 ハヤテがゆっくりとおじぎをした。その姿はとても優雅だった。きれいな顔立ちと洗練された動きは、まるで童話にでてくる貴族のようだ。守護はそんな彼を疑いながらも、お嬢様のお友達だ、と思い視線をはずした。
 実はハヤテは内心、ものすごく焦っていた。この少女を前にすると、普段の自分の冷静さがどこかへ飛んでしまう。何か、へまをする可能性が大きいのだ。調子が狂う……。
「また会えたね。しかも同じ日に! ……まさか本当に会えるとは思わなかった」
「……俺も、もう会う事はないだろうって思ってました」
「あっ、そう言えば、まだ名乗ってなかったね。私はナギ。よろしく」
 ナギは微笑んで、手を差しのべた。ハヤテはためらいながらもその手をとり、二人は握手した。
「よろしく、ナギさん」
「あ、さんなんて付けないで。もう、“様”とか“さん”とかうんざりなの」
 このナギの言葉に守護は顔をしかめたが、ハヤテは気にするふうもなく言った。
「分かった。ナギ、でいいんだね?」
「うん」
 ナギが嬉しそうに頷いた。
 もっとたくさん話をしたかったが、守護の止めが入ってしまい、ナギは残念そうに浜を後にした。ハヤテを何度も振り返りながら。

 *

「ナギ! 遅いじゃないか……心配したぞ」
 家に帰ると案の定、ヨゼが駆け寄ってきた。
「もう、またそんなに心配して……。大丈夫だってば。守護の人って、強いんでしょ?」
「そりゃ強いが、何があるか分からんだろう! ……しかし良かった。無事に帰ってきて……」
 ヨゼは胸をなでおろしながら、ナギに食堂へ行くように言った。
「今日はお前の好きな、グラタンだ。しっかり食べなさい」
 食堂に近付くに連れ、グラタンのにおいが強くなっていく。自然とナギの顔が和んだ。――今日はなんていい日だろう。彼に二回も会えた上に、夕飯は大好物のグラタン!
「お嬢様、本日のディナーは……」
 白いコック帽をかぶったシェフが説明を始めた。しかし、ナギには声など届いていない。シェフはついに諦め、説明をやめて料理を持ってきた。

 おいしいグラタンを食べ、風呂も入り、ナギは自分の部屋に戻った。テレビをつけると、ニュースがかかっていた。しかしナギはテレビには目を向けず、ドレッサーの前に行き、髪を整え始めた。
「……では、次のニュースです。……の……で、警官一人が死亡しているのが見つかりました、……」
 ナギは聞き覚えのある地名を耳にし、はっとテレビを見た。
 ――信じられない! 紛れもない、この港町だ。
「……警官のおじさん?」
 画面の下の方に、殺害されたという警官の名が出た。それは、小さい頃からナギを可愛がってくれた、あのおじさんの名……。ナギはぶるっと身震いした。すぐ側の人間が、突然、死んでしまうなんて……。そう言えば、母の死も突然だった。昨日まであった笑顔が、当たり前だったものが、消えてゆく。ナギは急に不安になってきて、父の書斎に向かった。書斎に入ると、座って仕事をする父の横に立った。ヨゼは机に向かったまま言った。
「……ナギ、すまんが話は後にしてくれ」
「パパ……」
 その声には力がなく、今にも消えてしまいそうだった。それに気付いたヨゼは手を止め、娘を見つめた。
「どうした、顔が真っ青だぞ」
「……パパ、テレビ、見てないの?」
 普段はつけっぱなしにしてある書斎のテレビだが、今は暗く部屋の景色を映している。
「ああ、そういえば今日はつけてなかったな」
 リモコンに手を伸ばそうとした父を見て、ナギは慌てて言った。
「いい。つけなくていいの」
 ヨゼはそんなナギを見て、心配そうに尋ねた。
「どうしたんだ? 様子がおかしいぞ。熱でもあるんじゃ……」
「警官のおじさんが、死んだわ」
「……なに?」
「今、ニュースでやってたの……。間違いなく、おじさんだった」
 ヨゼは驚いて目を見開いたが、すぐにうつむいてしまった。ナギが近付いて、父の手をとった。ヨゼは微笑んだが、しかし、その目は悲哀の光を帯びていた。
「……ニュースになるって事は、病死とかじゃないんだな。何が起こったんだろうか。……明日、聞いてみよう」
 父の様子も、どこかおかしいような気がした。
 大きな不安が、ゆっくりと心を這い上がって来るのを、ナギは感じた。
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