凪いだ海に駆ける疾風
はじめに


序章


第一部:潮の香の中


第二部:生き地獄



■2-6#訓練■
 のどが焼けるように痛い。今までこんなに長い時間走ったことは一度だってなかった。何分ぐらい経っただろうか。三十分? 一時間?
「ペースが落ちてる!」
 レイが横で怒鳴った。
「同じペースで走り続けないと、もっと辛いんだぞ!」
 ナギは必死に足に神経を集中させ、できるだけペースを上げようと試みた。だが、なかなかうまくいかない。一度下り始めたスピードは二度と元に戻ることはなかった。それを見抜いたのか、レイは言った。
「よし、今日はこのへんでやめておこう」
 その言葉に、ナギはその場で倒れた。もう足で体を支えることができない。肺が酸素を求めて激しく呼吸を繰り返す。
「よく頑張りましたね。一時間五分走りましたよ」
 レイが時計を見ながら言った。
 今朝早くからナギは、トレーニングを開始した。彼女にはレイがつき、厳しく指導することになった。とりあえず基礎体力をつけなきゃならないから、と言って、レイはナギを町へ連れ出し、ひたすら走らせた。ナギにとって、それは単純だけととてもきついメニューで、二十分が過ぎたあたりから全身が自分のものではないような気がするほど辛くなってきた。最初にあった、すれ違う町の人に明るく挨拶を返す余裕もすっかりなくなって、後半はいつ終わるのかとばかり考えていた。
「最初にしては、上出来です。明日は一時間十分走りましょう。そうしてちょっとずつ時間をのばしていけば、いつのまにか体力がついていますよ」
 ナギと同じペースで走っていたのに、レイはまったく疲れを見せていない。ナギはすごいなぁ、と感心した。
「お屋敷に戻りましょう」
 レイが言って、ナギを見た。ナギは少し呼吸も落ち着いて、よろよろと立ち上がった。
「うぅ……頭がガンガンする……」
「ははは、突然走りましたからね。でも、真っ昼間に走らされるよりははるかに楽ですよ。この季節、昼間は一番辛い。太陽が憎らしく思えるものだ」
「確かにそうかも……レイさん、絶対昼間に走ろうなんて言わないでくださいね」
「うーん、どうしようかな」
「鬼だー……」
「冗談ですよ」
 丘をのぼって屋敷の門をくぐった。門衛が心配そうにナギを見ていたが、ナギは問題ないと笑顔を返した。
「戻ったぞ」
 〈修行の家〉に入ると、レイが言った。壁に体を預けて休んでいた守護たちは、慌てて立ち上がると深々と礼をした。ナギに対してのものだ。
「あ、いいの。ここにいるときは、私、みんなと同じだから。ただのわがままな小娘よ」
 ナギは笑いながら言った。守護たちはうーん、と困った顔をした。
「ゆっくり慣れていけばいいわ。ね?」
 レイが頷いた。満足しているようだ。
「じゃあ、お前たちはそのまま続けてくれ。わたしはナギ様について、隅でやっている」
 守護たちは歯切れのいい大きな返事をし、アルの指示に従ってトレーニングを続けた。
「やっと剣術を教えてくれるのね」
「いやいや、剣術なんてまだまだずっと先のことだ」
「えーっ、そんなぁ」
 ナギは不満そうに頬を膨らませた。
「いいですか、剣術を覚える前に、基本的な戦闘知識を詰め込まなきゃならないです。そして、それが自然にできるようにする。考えてから行動を起こすんじゃなくて、体が覚えて勝手に動くぐらいのレベルまで極めるんです」
「うぅ、道のりは長そうだ……」
「そのとおり。では、早速いきますよ。まずはこれ……」
 それから数時間、ナギは一つの技をひたすらやり続けた。レイを相手にして、その技だけを打ち込み続けるのだ。この技がレイに一本決まるまで最初のメニューからは抜け出せない。もちろんレイは本気だし、何年も守護として働いてきているのだから、ナギが攻めていってもひょいと避けてしまう。
 ナギはしばらくただ何も考えずに技を繰り出していたが、やがて、レイの行動が読めるようになっていった。ここをこうすれば、レイさんはこう出てくる……。よし、これを逆手にとってやろう!
 ナギがさっと手を伸ばしレイの襟元をつかもうとすると、レイは彼女のその手を払いのける。ナギはそこですかさず逆の手を突き出しこちらに伸びていたレイの手をつかんだ。そして抵抗する隙も与えず背中にねじり上げた。
 レイはその突然の攻撃に驚いて反応もできず、ついにナギはその技を成功させた。
「やったぁ!」
 ナギはガッツポーズをすると、レイの正面にまわった。
「ね、完璧だったでしょ?」
 レイはそうとう驚いている様子だった。
「うむ……見事ですね。こんなに早くこの技を決めた者は、今までいなかった。アルでさえ、三日はかかったぞ」
 トレーニングをしていた守護たちも、とても驚いているようだった。口はぽかんと丸く開いている。アルも目を丸くしていた。
「どうやらあなたは、人の動きを読むのに長けているらしいな。普通なら、それが一番苦労するのに。いや、お見事」
 レイはナギの頭にぽんと手をおくと、嬉しそうに頷いた。
「今日はこれで終わりだ。お疲れ様。また明日、今日と同じ時間にここに来なさい」
「はい、分かりました」
 ナギは一礼して〈修行の家〉から出ていった。
「ナギ様は、素晴らしい才能の持ち主ですね」
 アルが言った。
「女性ながら、よい守護になるかもしれません。僕たちも負けないように頑張らなくちゃな」
 守護たちはハハハ、と楽しそうに笑った。
「お前たちもしっかりやらないと、笑い事じゃなくなるぞ。よし、アル、交代しよう。わたしが指揮する」
 アルが下がって他の守護と並ぶと、レイはよし、と気持ちを切り替えた。
「いつものとおり、二人組みをつくれ。これから剣の稽古をする」
 〈修行の家〉から聞こえる金属同士がぶつかり合う音は、夜まで鳴り止むことはない。
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