凪いだ海に駆ける疾風
はじめに


序章


第一部:潮の香の中


第二部:生き地獄



■2-3#屋敷の会話■
 翌朝、ナギは屋敷の庭のはずれにある建物に足を運んだ。ナギが小さいころから〈修行の家〉と呼んでいる、守護となった者がトレーニングをする場所だ。ナギは〈修行の家〉の扉をそっと開けて、こっそりと中に滑り込んだ。
 最初にナギに気付いたのは、守護たちのリーダーであるレイだった。彼は慌ててナギに近寄った。
「……ナギ様? なぜこのようなところに?」
 ビシッときれいに並んだ全五人の守護たちは、興味深そうにふたりに視線を注いだ。同時に奥の戸からアルが出てきた。
「アル、わたしの代わりにトレーニングを進めておいてくれ」
「はい」
 アルは一礼すると、ナギに微笑みかけてから五人の守護の前に立った。そして大きな掛け声とともにトレーニングを開始した。
「邪魔してごめんなさい」
「いいや、いいですよ。まったく構いません」
 レイは苦笑した。
「わたしはもう昔ほど動けないので、そろそろアルに代替わりしようかと思っているところですし」
「えっ、そうなの? ……でも、このお屋敷を出ては行かないよね……?」
 父を亡くした今、ナギにとってレイは一番頼れる男性だった。ヨゼより多少年をとってはいるが、ヨゼと同じ時代を過ごして来た者だ。出て行かれては心細い。しかし、ナギの心配をよそに、レイは豪快に笑った。
「例え出て行きたかったとしても、こんな頼りないヒョロヒョロたちを六人も残して、出て行くことはできませんよ!」
 その言葉に、アルを含めた六人の守護たちの動きが止まった。まるで打ち合わせをしていたかのような、息のぴったり合った動きだ。レイはおかしそうに、彼らを眺めた。
「はは、冗談だよ。若いころのわたしより実力は劣るかもしれませんが、彼らは立派な一人前だ。ナギ様、安心してください」
 ナギもくすくすと笑った。
「もちろん。みんなのことを信じてるわ」
 再び気合の声が広い建物に反響し始めた。レイは、他の者がトレーニングを再開したのを見てナギに向かい直った。
「さて、話がそれてしまったな。何をしにいらっしゃったのですか?」
 ナギは、ちょっと照れくさそうに笑った。頬が桜のような桃色をしている。そして小さな声で言った。
「私も、守護のみんなと一緒に特訓しようと思って」
「……は?」
「私もトレーニングするわ」
「……あの、もう一度……」
 そんなに信じられないのか、何度も聞き返すレイにじれったくなったナギは大きな声で言った。
「私も強くなりたいの!」
 その言葉だけ、異様に建物内に響いた。シーンと静まり返る一同。ナギはその沈黙に押し潰されそうになった。ナギがすっかり小さくなるまで、レイは黙って彼女を見つめた。そしてゆっくりと口を開いた。
「ナギ様……もしかして、先日小刀の戦闘方法をわたしに聞いたのは……そういうつもりで?」
「ええ。……あの時、この話をしようと思ったんだけど、レイさん忙しそうだったからやめといたの。だからとりあえず、ちょっとした技だけ教えてもらおうと思って……」
「ナギ様、やめなさい」
 レイがナギの言葉を遮った。不思議とやさしい声だった。
「武術の心得がある者のところには、自然と厄介ごとが転がり込んでくる。その力を使わなくてはならない状況が必ずやってくる。例え望んでもいなくてもです。この間は、簡単な護身術でも身につけたいのだろうと思ってお教えしましたが、わたしたちと同様にトレーニングをするとなると話は別です」
 レイはそっとナギの頭に手を乗せると、やさしくなでた。それから彼女の両肩をつかみ、くるりと方向転換させ、ドアに向かわせた。
「お戻りください。ここはナギ様のような、優しい娘さんがいらっしゃるようなところではございません」
 強引に扉の外まで押しやられ、ナギの目前で扉は閉まった。
「……もう、すでに」
 ナギは扉を睨みつけてつぶやいた。
「すでに、厄介ごとに巻き込まれてるわ」
 くるりと踵を返すと、ナギは屋敷に戻っていった。

 *

「サウ、今日は屋敷に行くぞ」
 ハヤテはどきりとした。屋敷なんか行きたくない!
「なぜですか? まだ、以前行ってから一週間も経っていないはずですが……」
 エンシはふうとため息をついた。
「これからはお前に、植木職人としての知識を詰め込んでいかなきゃな。……確かに、前回の手入れからまだ五日ほどしか経っていないが、昨日行われた〈霊別れ〉で庭に大勢の人がやってきただろう? あれでは芝が傷み放題だ。それを直しに行くのだよ」
 ハヤテは納得せざるをえなかった。
「準備はできたか? ……よし、行こうか」
 ドアを出て、背の高い草をかき分け大通りにでた。隣の八百屋は相変わらず大勢のおばさんたちでにぎやかだ。そのうちの一人がハヤテに気付き、詰め寄ってきた。
「あなた、サウくんよね? ……やっぱり! 好青年ねぇ。昨日の活躍ぶり、素晴らしかったわ!」
 そういうと、おばさんはハヤテの手をとって上下にぶんぶんと振った。
「ナギちゃんは、この港町のアイドルなの。ヨゼさんが亡くなってみんな悲しんでいたけど、ナギちゃんを救ったあなたの話で、この町はまた明るくなったわ!」
 するとおばさんはハヤテをむぎゅっと胸に抱いた。彼は息ができなくなって身もだえした。が、おばさんはそれに気付かない。
「あなたは素晴らしいわ! この町の光! あなたがいれば、ここは平和ね」
 そしてハヤテを引き離すと、その頬にキスをした。ハヤテは頭がくらくらした。キモチワルイ……。
 やがてハヤテに気付いた他のおばさんたちが彼の側に大勢集まってきて、八百屋前はすごい騒ぎになった。おばさんたちの黄色い声がハヤテの耳をつんざく。エンシもそのすさまじさに顔を歪めていた。
「エンシさん! 手を」
 エンシの手の感触が伝わり、ハヤテは彼とはぐれないようしっかり手をにぎった。ぎゅうぎゅうと、四方八方からかかる圧力から逃れるため、ハヤテは強引に人々をかき分け進んだ。
「……出られたっ」
 ハヤテは地面に転がった。彼と手をつないでいたエンシも必然的に同じ道をたどる。
「イテテ……お前の人気はナギちゃん以上だよ、まったく……」
 腰をさすりながら、エンシは起き上がった。後方では、まさかすでにハヤテがいないなどと思いもよらないおばさんたちが、キャーキャーと黄色い声を上げている。
「はは、さすがにナギ様には劣りますよ。……さ、こっそり行きましょう。また見つかったら大変だ」
 二人は小走りして、大通りを抜け、丘をのぼった。最後のこの坂をのぼりきればお屋敷だ。
 門では、ヨゼが殺されたことで警備を強化し、新たに配置された門衛が立っていた。番は、レイとアルを除く五人の守護が交代で行われている。その日門衛の当番だった守護は、エンシを見ると簡単に中に入れてくれた。
「この感じじゃあ、意外と警備は手薄だな。もっとちゃんとした対策をとらないと、ナギちゃんが危ないってのに」
 エンシは一人つぶやいた。ハヤテは共感するとともに、このままでいいとも思った。こっそりナギに会いに来るのでも、この程度の警備なら簡単にくぐり抜けられるからだ。もっとも、来ることなどないだろうが。
「おや、ありゃナギちゃんじゃないか?」
 エンシの視線の先には、確かに、池をじっと見つめるナギの姿があった。どこか悲しげに見える。ハヤテは理性を保つのに一苦労した。へたしたら、思考より先に体が働いてナギを抱き締めてしまう。
「おーい、ナギちゃん」
 エンシが手を振り、ナギを呼んだ。ナギはびくっと体を揺らすと顔を上げ、こちらを見た。サウの姿を認め、一瞬顔を強張らせたが、すぐに普通に装った。エンシはその彼女の表情の変化に気付くこともなく、手を振っている。ナギは立ち上がって服のほこりを払いながら、小走りで駆け寄ってきた。
「こんにちは、エンシさん」
「調子はどうだい? 見た限りでは健康そうだが」
「ええ、大丈夫。少し疲れてはいるけど」
 そしてナギはすぐにハヤテに視線を移し、あ、と驚いたような顔をした。それからすぐに深いお辞儀をした。
「昨日はありがとうございました。あなたのおかげで、私は死なずにすんだわ。本当に、こころから感謝します。……えっと?」
「サウです」
「サウさん、ですね。本当に……ありがとうございます。なんとお礼を言っていいか」
 ナギのその演技は、実に素晴らしいものだった。ハヤテのようにまったくの別人に装うような訓練をつんだ者ならまだ分かるが、ナギは、そうことにはまったくの初心者のはずだった。ハヤテは感心した。
「いいえ、そんな。たまたま木の陰から人影が飛び出してくるのを見つけ、お守りしようと思っただけですから」
「でも、自分の身の危険もかえりみず人を助けるのは、そう簡単にできることではないと思うわ」
 謙遜の言葉もそれ以上見つからず、ハヤテは黙ってしまった。ただ、二人は視線を合わせるだけだった。そこにエンシが口を挟んだ。
「若いもん同士にしては、実に知的な会話じゃな」
 愉快そうに笑っている。
「わしも君たちの会話を聞いていたいのだが、この芝の痛み具合は思ったよりひどい。さっさと仕事を始めないと、何日かかるか分からんよ」
 ハヤテとナギは一緒に微笑んだ。
「じゃあエンシさん、どうぞよろしくお願いします。サウさんも、お手伝いがんばって」
「はい」
 ナギは屋敷の中へ姿を消した。ハヤテは彼女の後姿を、見えなくなるまでずっと見つめ続けた。愛しいその背中を。
「さてと」
 エンシがハヤテに声をかけた。
「仕事を始めよう。ナギちゃんとおしゃべりするのはその後だ」
「はい」
 ハヤテは一つ返事をし、先を歩いていくエンシの後についていった。
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