凪いだ海に駆ける疾風
はじめに


序章


第一部:潮の香の中


第二部:生き地獄



■1-8#殺人者と目撃者■
 静かな屋敷に少女の絶叫が響いた。
「お嬢様!?」
 慌ててヨゼの書斎に駆け込んできた執事は、嫌な臭いに顔をしかめた。
「この臭いは……?」
 むわっとした熱気に包まれる。
「お嬢様……?」
 ナギのすすり泣く声が聞こえてくる。電気のスイッチをつけたが、書斎は一向に明るくならない。そこで執事はポケットからマッチを取り出し、ランタンに灯をつけた。暖かい光に辺りが照らされた途端、執事は真っ青になった。ナギは窓際に座り込み、両手で顔を覆っている。
「ナギ様……これは……」
 一歩足を踏み入れ、執事はついにランタンを落としてしまった。
「ご主人様っ!」
 書斎の真ん中で血塗れになり、ヨゼが仰向けで倒れていた。ピクリとも動かない。
「……亡くなっている……」
 執事が絶望の声で呟いた。執事のあとを追って来たらしい、後ろから世話係の女たちのきゃっという小さな悲鳴も聞こえた。執事はふらふらとナギに近寄り、そっとその肩に手を置いた。執事の手も、ナギの肩も、小さく震えていた。
「お嬢様、一体……何が……」
 しばらくガタガタ震えていたナギだったが、突然パッと顔を上げると、手の甲で涙を乱暴に拭った。濡れたその目は怒りに満ちていた。
「……何で……」
 そう一言呟くとナギは執事の手を振り払い、だっと駆け出した。階段も、すごいスピードで駆け下りた。裸足のまま外に出た。ポーチの階段を下りると雨を遮る物がなくなり、すぐにびしょ濡れになった。
(何で、あの人が……)
 優しい笑顔の、綺麗な青年。頬に鮮血をつけ、恐ろしい姿に……。
 稲光が辺りを照らした。
(会って、会って確かめなきゃ……!)
 この丘から町に下りるまでの道はこの一本のみだ。その道の草の上に血の跡がある。この跡が雨で流れてしまわないうちに、早く彼に追いつかないと。しかし焦れば焦るほど土のぬかるみに滑り、時間が過ぎる。激しさを増す雨に体温はどんどん奪われて、足の回転は遅くなり、視界もぼやけてきた。どれくらい走ったかも分からない。ついにナギは、草の上に倒れた。
「何で、こんなことに……」
 ナギはめちゃくちゃに叫んだ。その声はごうごうと唸る雨に掻き消されてゆく。叫んで、泣き続け、終いには声が出なくなった。
「ひっ……く……」
 その時、ぼやけた視界に誰かの足が映った。それはゆっくりとこちらへ近付いてくる。そしてナギの目の前まで来ると、ぴたりと止まった。
(……誰?)
 そう尋ねたくても、腫れあがった喉からはしゃくりしか出てこない。どうする事も出来なくて、ナギは薄目を開けたまま涙を流していた。すると、もはや何も感じられなかった腕に、暖かくやわらかい物が触れた。それは力強く、ナギの体を仰向けにしてしまった。ナギは、それが人だと気づいた時、体がふわりと軽くなるのを感じた。膝の裏と肩に腕がまわされ、抱きかかえられている。下からその人の顔を見上げ、怒りが込み上げてきた。しかし、今のナギには抵抗する力がない。自分の無力さに腹が立った。
 青年はナギの方には目もくれず、まっすぐに前を見据えて、歩き出した。ナギは青年が憎らしかったけど、彼のこのあたたかい腕が、自分を助けてくれたのだということは認めた。
 やがて大きな木の下に着いた。天へ向かって何枚も葉を重ねた大木の下に、雨は一滴も落ちてこない。
「……」
 青年は無言のままナギの背を木の幹に預けて座らせると、腰に巻いていた飾り布を取り、そっとかけてくれた。ナギには、その心づかいが痛かった。こんなに優しいのに。大好きなのに。何で? 何であんなことをしたの?
 青年は、そのまま立ち去ろうと足を踏み出したが、慌てて戻って来た。今のナギは自分の体を動かすことが出来なかったから、支えがないと木の幹を横に滑り、倒れてしまうのだ。
 倒れそうになったナギの体を支え、青年は、そのまま彼女の横に座った。不器用にナギの肩に左腕を回し、体を自分の方へもたれさせた。
「どうして……」
 ナギはか細い声で、尋ねた。
「どうして、助けるの?」
 青年はちらりとナギのほうへ目をやると、うつむいた。その横顔は悲しみと後悔で影に沈んでいた。
「俺も、分からない」
「……ひどいよ。あなたに、人の命を奪ったり、……逆に、助けたり、出来る権利なんて、ないわ」
 青年は唇を噛んでいた。血が滲むほど強く。そして自然と、ナギの肩に回している腕にも力が入った。
「全部……話していいかな」
 ハヤテの声は震えていた。
「全部、吐き出してしまいたいんだ……残酷なことかもしれないけど、君になら、それができる」
 ナギはどうすることも出来なくて、ただ頷いた。
「俺は……ずっとヨゼを殺すことだけを夢見て生きてきた。ヨゼは、自分が雇った殺し屋に俺の両親を殺すよう命令を下したんだ。両親を失った俺はどうすることも出来なくて、気付いたら、ただ殺戮を繰り返すだけの人形になってた。その殺し屋という職業は辛くて、だけど一度人を殺してしまったら、もうもとの明るい道に戻れなくて……。俺がこうなってしまったのは全て両親が殺されたから。だからヨゼは俺にとって、世界で一番憎い残酷な男だった。奴に俺と同じ思い――一番大切な人を殺されること――を味わわせてやろうと、君のお母さんを殺したんだ……十一年前の夜にな」
 ナギは呼吸するのが辛かった。パパが、人殺し? ハヤテの両親の命を奪ったの? さらに、ナギはショックを受けた。今まで母の死因については詳しく話してもらえなかったが、父からは、突然病気の発作が起こったのだ、とだけ聞かされていた。その答えには疑問だけが残ったが、やがて彼女はその話を信じたのだった。
「ヨゼに俺と同じくらいの娘がいると知ったのは、それからしばらく経ってからだった。でもそのとき抱いたのも、ただ憎い、という感情だけだった。あのヨゼの娘なんて、どうでもいい。裕福で幸せな家庭でぬくぬく育ってきたんだ、と考えたら、いい気味だとさえ思った」
 ハヤテは静かにナギを見つめた。
「それが……君だったんだね」
 ナギは、ハヤテの深い海のような瞳に溺れた。同時に混乱の渦に飲み込まれそうになった。だが、ナギの頬にそっと触れた彼のあたたかい指が、それを引き止めてくれた。
 愛しい人。こんなにも愛してしまったのに、その人は自分から二人の親を――幸せを、奪っていった……。そしてまた私の父も同じように、彼の両親と幸せを奪った。
 父を? ハヤテを? 憎まなきゃいけない? 憎むべきなの? ――確かに、憎むのが普通なのかもしれない。だけど、彼女の心にあるのはそれとはかけ離れた複雑な思いだった。
 ナギは、もう、十分だ、と思った。
「神様って、残酷ね……」
「……え?」
 ナギの涙が、ハヤテの指先をかすめた。
「ハヤテ……私、あなたをどう見ればいいのかな。愛しいけど、父の仇だわ……。でも私の父も、あなたの幸せを打ち砕いた。そしてあなたが辛い世界に放り込まれたとき、私はあたたかい家庭で幸せに暮らしていた。あなたも私が憎くて当たり前なのよね……」
「ナギ……」
 ハヤテの頬にも、涙が伝った。
「俺はヨゼが憎い。そして奴と同じ血がかよってる娘の君も憎い。だけど今は、それに、愛してる、って感情もまじってるんだ……」
 ナギはふと顔を上げた。
「……あなたは、私の愛しい人……だけど父の仇なのも事実」
 ナギはハヤテの目をまっすぐに見た。そして、そっと微笑む。
「でもね……今だけ、憎い気持ちは、忘れる」
 その言葉に、ハヤテも微笑んだ。
「そうだな。今だけ……今だけは、俺たちはただの愛し合う恋人だ」
 ナギは頷いた。
 ハヤテは体の向きを変え、ナギに向かい合った。
「ナギ……」
 ハヤテの両手がナギの頬にそっと乗せられる。呼びかけられ、ナギは自然にまぶたを閉じた。
 二人の唇が触れた。
「ナギ……好きだ」
「私も。大好きだよ、ハヤテ」
 再び二人の唇は重なり、今度は長い長いキス。
 こころは穏やかで、純粋な想いだった。どこまでも透明で、清らかな気持ち。一点の濁りもない。
 しかし二人は知っていた。この想いは、すぐに破滅することを。どんなに想っていても、ハヤテはナギにとって父の仇であり、ナギはハヤテにとって殺しの目撃者なのだ。
 想いが通じた喜びと、変えようのない運命、そして過去……。
 彼女はただひたすらに、ハヤテの腕の中で涙を流し続け、彼はそんなナギを力強く抱きしめるだけだった……。
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