凪いだ海に駆ける疾風
はじめに


序章


第一部:潮の香の中


第二部:生き地獄



■1-2#謎の青年■
「有名な資産家のヨゼ様がこの街にいらっしゃると聞いて来たのですが……」
 町の小さな交番。
「ああ、ヨゼさんですね。いらっしゃいますよ。……何か、ご用でも?」
 警官に聞かれ、腰の曲がった老人がにこにこしながら楽しそうに話す。
「いやぁ、なんでも素晴らしいお方だと聞きましてね。一度、会ってみたいと思ったもので」
 制服をきりっと着こなした警官も、優しく微笑んだ。
「そうですか。本当に、ヨゼさんは素晴らしいお方ですよ。忙しい方なので、会えるかどうか分かりませんが……お住まいは崖の上にある、丘のてっぺんです。とても大きなお屋敷なので、すぐに分かると思います」
 老人は帽子をさっと取ると、警官に向かって頭を下げた。
「ありがとう、早速行ってみますね。では教えてくださったお礼に……」
 老人の姿が一瞬、揺らいだ。
「死の世界へご案内いたしましょう……」
 老人が後にした交番には、ぐったりとした警官の姿があった。

 *

「ナギはどこに?」
「食堂でお食事をしていらっしゃるかと……」
「そうか、食堂か」
 ヨゼが食堂に着くと、ちょうどナギが食事を終えたところだった。
「ナギ、お願いがあるのだが……」
「……なに?」
「少しばかり、おつかいを頼まれてほしい。……お前はどうしても外に出たいらしいから、おつかいの帰りに少し、街を見てきていいぞ」
 ナギは目を大きくして、喜んだ。
「本当? パパ、ありがとう!」
「ただし、守護の者はちゃんと連れて行かせるからな」
「分かったわ。でも、私が一人で外に出るのを認めてくれたのは初めてだね?」
 ヨゼは照れ隠しで笑った。ナギにメモと小包を渡し、玄関へ移動した。
「気をつけて行っておいで。わからない事があれば、守護の者に聞けばいい」
「うん。それじゃあ、行ってきます!」
 ヨゼは娘の姿が丘の向こうに消えるまで見守っていた。そして、優しい微笑を浮かべたまま家に戻っていった。
「ご主人様、なぜ許可を?」
 家に入ると、執事が複雑な表情をして、側に立っていた。
「あの子も、そろそろ分かってくれるかと思ってな。それに、あまり縛り付けては反抗的になる一方だ」
 執事は納得したのか、頷いた。
「……ご主人様、コーヒーでも?」
「いや、いい。ありがとう」
「そうですか。……何かありましたら、なんなりと」
「ああ」
 ヨゼは自分の書斎に入った。山のようにある仕事を片付けねばならない。疲れがまじったため息をもらした。

 しばらく経った時、玄関ブザーが鳴った。
「どなたですか?」
 執事がドア越しに尋ねると、若々しい声が返ってきた。
「サウと申します。先日この町に着いたばかりなのですが」
 執事はゆっくりと扉を開けた。二十をひとつかふたつすぎたくらいの、背の高い男が扉の前に立っている。
「何か用かな?」
「はい。仕事を探しているのですが、何か私に出来る事はありますでしょうか。雑用でも、なんでも致します」
 執事は考えて、人手が足りない所はないか、思い浮かべた。
「……ああ、そうだ。この屋敷付きの植木職人が、助手が欲しいと言っておった。そちらにあたってみては?」
 サウと名乗った青年の、黒い瞳がきらりと輝いた。
「ありがとうございます! ……その方のお住まいはどちらに?」
「この崖のふもとの、大きな八百屋の隣にあります。八百屋への道の看板はそこらじゅうに出ているから、まずは八百屋を目指しなさい。植木職人の家は背の高い草が生い茂っていて、見たらすぐに分かるから」
 サウはさっと頭を下げ礼を言うと、踵を返して歩いて行ってしまった。
「うむ……なかなか良い青年じゃないか。植木職人もさぞ喜ぶだろう」
 執事はにこにこしながら扉を閉めた。

 坂を下り、分岐点に出ている看板だけを頼りに八百屋を目指した。
 しばらく歩くと、野菜の青々しいにおいがしてきた。――鼻が異常なほど利く彼だから分かるにおいだが。
 にぎわう八百屋の前を通り過ぎ、少し歩いたところに、あの執事が言っていた家があった。背の高い草が、彼の腰あたりまで伸びている。
(ここが植木職人の家か……)
 草を押し分けて家の扉の前に来ると、サウはノックした。
「ごめんください。助手にしてもらいたく参ったのですが……」
 すると、二階から駆け降りてきたのかドドドドッと大きな音がして、扉が勢いよく開いた。サウは危うく吹っ飛ばされるところだった。
「おぉ、おぉ! 若くて元気そうな青年じゃの! 本当に助手をしてくれるのか?」
「はい。まったくの初心者ですけど……」
「そうかそうか、構わんぞ! わしは二週間に一度、ヨゼ様のお屋敷のお庭を手入れしに行くのじゃ! ……おっと、すまない。中に入りなさい。はっはっは、嬉しいのう!」
 強引に、植木職人はサウを家に引き入れた。
「自己紹介もまだだったな! わしの名はエンシじゃ! 君は?」
「僕は、サウと申します。先日この街に流れ着いたばかりで……」
「そうかそうか! では、家はないのだな? ないのならここに寝泊りするといい! わし一人では、ちと寂しいのでな! わっはっは!」
「は、はい……」
 植木職人のエンシは元気のいい、六十七、八の小柄な老人だった。家の中は案外広く、綺麗だった。二人で暮らすには十分だ。
「実はおととい、お屋敷に手入れに行ったばかりでなぁ。しばらくは暇なんじゃ」
「あの……街の人からの依頼とかはないんですか?」
「うむ……言われてみれば、個人からの依頼はめったにないの」
「そうですか……」
 サウは、じっと考え込んだ。
(くそっ……誤算だ。依頼が無いのなら、この人ずっと家にいるのか? だとしたら困るな……)
「……むっ? もうこんな時間か! わしゃ、ちょいと出かけるぞ」
「……どこへ?」
 エンシはにかっと白い歯を見せて笑った。
「わしゃ賭け事が好きでの! 最近は、町の集会所で仲間と集まるのが日課じゃて」
 サウは心の中で大喜びした。行け行け、そのまま帰ってこなくてもいいぞ。
「留守番頼むぞ! 出かけるなら出かけてもいいがな。家の鍵は閉めんでいい。どうせ盗むようなもんはうちにはないしな」
 サウは微笑んだ。
「分かりました。いってらっしゃい、エンシさん」
 エンシは上機嫌で家を出て行った。サウはエンシが完全に遠くに行ってしまうのを、まだかまだかと待っていた。エンシの気配が完全になくなると、サウは一つ息をついた。
「……よし、行ったな。……まずは家の物色でもするか」
 サウは掌を顔の前でさっ振った。するとなんと、顔つきががらっと変わった。と言うより、まったくの別人になった。金髪で、アジュールブルーの瞳を持った美しい青年、ハヤテに――。
「あの老いぼれじじいの一人暮らしにはもったいない家だな……」
 居間を出て、エンシの部屋らしきドアをゆっくりと開けた。そこは質素で、木で出来た机と椅子、それから小さなベッドがひとつあるだけだった。机の上には写真たてが所狭しと並んでいる。
(この写真……奥さんかな)
 一番大きな写真たてを手にとって見ると、美しい女性が写っていた。他の写真を見ても、ほとんどが同じ女性のものだった。たくさんのあるその女性の写真の中に一枚、バツ印が大きく書かれた写真があった。よく見ると、隅に水がついた形跡がある。
(涙のあと……死んだのかな……)
 そっと写真を置くと、机の引き出しを開けた。物の配置を頭に焼き付けてから、静かにあさり始める。一つ目の引き出しを開け、二つ目の引き出しを開け、最後の引き出しを開けたとき……。
「ラッキー」
 ハヤテはヒュウと口笛を吹いた。彼の手には一枚の古びた紙があった。それは、何かの間取り図だった。
「さすがの俺と言えど、やっぱ詳しい間取りが分かると心強いね」
 ハヤテは独り言を呟き、間取り図を開いた。それはヨゼの家によく似ている。……いや、ヨゼの家そのもの。
(待ってろよ、クソ野郎……)
 ハヤテの瞳が光った。殺気を帯びたそれは、まるで、青い炎のように……。
 忌々しい男をこの手で切り裂く日を、どれだけ待ったことか。この日が来る事だけを支えに、今まで生きてきた。そして、唯一のこの願いが、もうすぐ叶う。そう思うと、口元の笑みを禁じ得なかった。
 ふと、窓の外がやかましいことに気づいた。
「こんにちは、ナギ様」
「今日もお綺麗で!」
「守護の方を連れてなんて、珍しいですね!」
 あはは……と笑い声が響く。聞き覚えのある声だ。ハヤテは気配を消し、そっと外を眺めた。
(アイツ……今朝の?)
 目の青い炎は消え、穏やかな海へと変わった。
(ナギ……)
 ハヤテは彼女を見て、信じられないという思いに駈られた。――彼女の事を好いている、自分がいる。
(俺にはこういう感情はないと思っていたんだけどな……まだ、完全な殺し屋になっていない証拠なのか?)
 彼女を静かに見つめたその横顔には、どこか哀しげな表情があった。
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