凪いだ海に駆ける疾風
はじめに


序章


第一部:潮の香の中


第二部:生き地獄



■1-7#陰謀■
 時刻は一時間前にさかのぼる。

 空には灰色の雲が垂れ込めている。人の寄り付かない森の側、そこにハヤテがいた。時刻は五時二十分。彼の髪と同じ色の懐中時計を懐にしまい、ハヤテは顔を上げた。その視線の先には、大きなヨゼの屋敷がそびえている。
「ついに、この日が来た……」
 彼が信じるのは、自分自身。あらゆる武術を身につけ、裏の世界では最強と謳われる、自分の力。五才の時に両親を亡くし……いや、殺され、弱肉強食の世界に突然放り込まれた。その残忍な世界をたった一人で生き抜いてきた。唯一の支えは、両親を殺した奴を、いつかこの手で討ち取るという望みだった。
(父さん……母さん……あなたたちが死んで十二年だ。十二年間望んできたこの思い、いま、現実にするよ……。天国で、あいつが地獄に落ちる様を見ていてくれ)
 心で短い祈りの言葉を唱えると、ハヤテは森の中に入っていった。ここで、ふさわしい時が来るまで待つのだ。エンシには外出の許可をとってあるので、焦る必要もない。悠然とした気持ちで歩き出す。
 すでに頭の中で何度もシミュレーションはしてあり、この計画は完璧だった。たくさんの仮定と行動パターンの上に成り立つ計画は、どんな状況にも対応できる。さらに自分の機転の良さはすでに十分すぎるほど知っている。今までもたくさんのピンチを乗り越えてきた。自分には、暗殺者としての才能が備わっている。そんなことはとっくに気付いているし、自分の力は自分が一番よく知っている。
 ハヤテは目をつぶり、まぶたのうらで最後の確認をした。
「……よし」
 彼は小さく頷く。“その時”がもうすぐ来る。そう思うと、手が震えた。別に、人を殺すことに臆している訳ではない。むしろ嬉しさのあまりと言ったところだろうか。彼は暗い微笑を浮かべ、ヨゼの屋敷に向かって歩き出した。
 辺りは薄闇に包まれ、人影は少なくなってきていた。すれ違う人々は皆、ハヤテを見ると目をまん丸くして立ち止った。彼ほど美しい青年も珍しい。ハヤテは、自分が人々の中で印象づけられることを利用していた。彼は普段サウとして生活しているので、本来の自分の姿でヨゼの屋敷に向かい計画を実行すれば、サウの存在が怪しまれる危険性が低くなる。殺すときだけハヤテになり、それ以降はサウとしてこの街に居座り続け、奴の死後をじっくりと見物してやろうと考えていた。そうすればハヤテはこの街からいなくなったことになり、警察の目は街の外へと向けられる。なんて素敵な話だろう。
 ハヤテは緩む口元を抑えるのに必死だった。もうすぐ、俺の待ち望んだ世界が現れる。奴のいない、空気のきれいになった世界が。
 屋敷への一本道、緩やかな丘を登る細い道についた。もうすぐだ。
 辺りはすっかり暗くなり、常人ではほとんど何も見えない。しかし、常人の域から大きく外れている彼は、暗闇など恐くもなんともない。全てがはっきりと見えるからだ。
(あそこがあいつの部屋……)
 東側の屋敷の壁を見上げ、ハヤテはにやっと笑った。その顔を見た者はいなかったが、鳥や猫が慌しくその場から逃げ出した。彼の周りには、何とも怪しげなオーラが漂っている。
 ふかふかの芝生を一蹴り、音もなく跳び上がった。二階であるその窓までは、ざっと八メートルはある。しかし、気付くと彼は窓枠に手を掛けていた。
 そっと部屋の中をのぞいてみると、“標的”が暴れているが見えた。彼はそっと窓を開け、明るい部屋の中に滑り込んだ。――六時〇〇分。

 *

 ヨゼはぜぇぜぇと息をしながら、本棚の本を乱暴に降り落としていた。どうしようもない怒りが込み上げてきた。なぜ自分は、十二年前のあの時、あんな決断しか下せなかったのだろう――。出来る事なら、あの時からやり直したい。あの時のあの決断をなかったものにできれば、きっとこんな事は起こらなかっただろう。そして、トリウも死ななかった――。
 全ての本を落とし終わっても、ヨゼの瞳からは怒りと悲しみがあふれ出ていた。
「荒れてますね、旦那」
 突然聞こえた声に、ヨゼはびくりとして振り返った。出窓で出来たスペースに、青年が腰掛けている。
「お前は、この間の……一体何者だ?」
 ハヤテはヨゼをまっすぐ見、ふっと嘲った。
「忘れられてんのか、俺は。悲しいね」
 その途端、ヨゼは驚きで大きく目を見開いた。
「お前は……!」
「思い出してくれた?」
 ヨゼはうつむいた。一番会いたくない人物が、今、目の前にいる。
「俺、あんたに殺されたナミとソラオの息子、ハヤテです。……どうも」
「ハヤテ……か。賢そうな青年に育ったものだ……。ソラオに似ているよ。髪の色は母譲りだな……」
 ハヤテはぴくっと体を揺らした。真顔になる。
「ヨゼ、俺が今日、ここに何しに来たか分かるか?」
 ヨゼは顔を上げた。
「……今度は私の娘でも、殺しに来たか」
「今度は、ってのが気になるな。……気付いてたのか?」
「ああ、あの時すぐにぴんときた。トリウはお前に殺された。そうだろ? そして今度は、タロを……!」
 ハヤテは再び笑った。しかし、それは決してあたたかい物ではなかった。
「復讐さ。お前を、俺と同じ立場に立たせてやろうと思ってさ。大切な人を殺されるという辛さを味わってほしかった。でも……これだけは覚えとけ。俺は、今まであんたと関わった全ての人間を片っ端から抹殺したいぐらい、あんたを憎んでる」
 その言葉を聞き、ヨゼは強く唇を噛んだ。
「すまなかった……。あの時は、お前の事など頭になかったんだ……。お前の両親が、我が社の大事なデータを流出させてしまったことに、酷く腹を立てていたから。今考えてみれば、お前の両親を……こ、殺すように命令を下さなくても……そこまでしなくても、よかったと思う……。あの時、わたしはまだ若かったのだ……本当に、すまない……。お前にトリウを殺されても、わたしはお前を恨んだりなんて、していない。そのかわり、私は自分を変えるよう努力して――」
「黙れ!」
 ハヤテに遮られ、ヨゼははっと顔を上げた。声から予想したとおり、ものすごい形相だった。
「すまない、なんて、聞きたくない言葉だ。人を殺すことを選んだのなら、もうその道からは逃れられない。お前には一生『人殺し』という言葉がついてまわる……それが定めだ。それを、なんだ? 変わろうと努力しただと? ……確かにお前の評判は、あの日から急激に変わっていったな。それまでとは全く正反対だった。お前が関わってる話は全ていいものばかり。『ヨゼは金持ちでありながら、良き心の持ち主だ』なんて熱く語るじいさんもいた。言うまでもなく俺は、そいつを殺してやった。その『良きこころの持ち主』が、俺という殺し屋を生み出したんだ、ってことを思い知らせてやるためにな……」
 いったん言葉を切り、何か考えてからハヤテは続けた。
「なあ、知ってるか? 裏の世界……大勢の殺し屋がうごめく、暗い世界を? そこでは強い者が生き抜き、弱い者が死んでいく。俺はあんたのおかげで、そんなスバラシイ世界で生きることになったんだぜ。俺がお前の奥さんを殺したとき、まだ六歳だったけど……俺は、すでに『最強』とささやかれていた。一躍殺し屋のヒーローになったわけだ」
 そこでハヤテはにっこりと笑った。
「じゃ、ここでクイズ。そのヒーローの強さの秘訣はなんでしょう?」
 ヨゼは突然自分にふられ、困ってしまった。
「これはかなり難易度高いからな……分からなくて当然。じゃあ、答え。それは、こころの奥底にある『ある男への憎しみ』です」
 ヨゼはハヤテを見て、何かが違うと思った。この青年には、大事な物が抜け落ちている。
「でさ、本題に入るけど。実は今日の目的は、あんたを殺すことなんだよね」
 ヨゼはその言葉に、愕然とした。
「もう、精神的にはそうとう痛めつけてやったからな。そろそろ本人もいじってやろうかと思ってさ。まあ、死ぬことによってあんたが楽になるのは気にくわないが……俺は、あんたと同じ世界に暮らして、あんたと同じ空気を吸ってるってほうが、もっと気にくわないんもんで」
 ハヤテはどこから出したのか、長い両刃の剣をヨゼの鼻のすれすれまで突き出した。
「悪いけど、即死はさせないぜ。ゆっくりゆっくり……苦しませてやるからよ」
 そう言うと、ハヤテはゆっくりと、ヨゼの目の下からあごまで一筋の傷をつけた。少量の血がじわりと滲む。
「お前みたいな奴にも、血は通ってるんだな……俺とおんなじだ」
 助けてくれ、と叫ぼうとしたが、ヨゼはそれを諦めた。つい先ほど、レイに部屋から離れろと命じてしまったのだ。自分が暴れる音など聞いてほしくなかったから。もう、彼の助けは来ない……。
 ハヤテの目を残虐な光が踊る。
「今日も俺の相棒は、切れ味抜群。こんなので斬られちゃ……」
 剣が虚空を切る。
「泣けないほど痛いだろうなぁ!」
「うぐっ……!」
 一瞬剣が見えなかった。気付くと肩から脇腹にかけて、ヨゼは大きく斜めに傷をつけられていた。血が流れ出る。同時にパリンと音がし、あたりが暗くなった。電灯が割れたらしい。
「くくく……痛いか? なあ?」
 倒れかけたヨゼを、下から切り上げる。今度は足から血が吹き出した。悲鳴をあげられないほどの激痛で、ヨゼは気を失いかけた。しかし、ハヤテがそれを許してくれない。
「おっとっと、気を失って一足先に楽になろうなんて、ズルイんじゃねぇの? 言っただろ、苦しめてやるってさぁ」
 ハヤテはヨゼの胸倉を掴み、持ち上げた。ヨゼは長身のため、その体重は決して軽くはないのに、ハヤテの片手で軽々と浮いている。右手に持たれた剣が、ヨゼの肩や首をかすめていく。青いはずの寝巻きが紅色になりつつあった。
「血ってさぁ、この剣とおんなじ、鉄の味すんだぜ。知ってた?」
 再び胸を切りつける。おびただしい量の血で、床のカーペットにしみが出来ていく。
 ハヤテはヨゼを床に叩きつけると、彼の体を仰向けにしてその上に馬乗りになった。ハヤテは無表情で、ヨゼの頬を拳で殴った。
 ガッ。
 鈍い音が響いた。再び、もう一発。やがてヨゼの顔が大きく腫れ上がるまで、ハヤテは拳を振るい続けた。ひときわ強力な一発がヨゼの鼻を直撃した。耳をふさぎたくなるような音とともに、鼻の骨は折れた。
「俺さぁ、いろんなこと知ってんだよね。人体のどこを、どのくらいの力で攻撃すれば生かしながら殺せるか、とか」
 ハヤテは立ち上がり、大の字で横たわるヨゼの右わきに立った。全身に走る激痛に、ヨゼの顔は涙で濡れていた。
「一番苦しめて殺す方法……とかさ」
 一瞬ハヤテの顔に無邪気な笑顔が浮かんだ。途端、勢いよく振り上げられた彼の足がヨゼの腹部を直撃した。強力なかかと落としだ。
「ぐあぁっ!」
 ヨゼの口からドロッとした赤い液体が流れ出た。
「内臓破裂……だな」
 ハヤテは再びヨゼの胸倉を掴み、彼の体を片手で持ち上げた。そして、その胸にそっと耳をくっつけた。
「心臓、まだどくどく言ってる。そろそろ働くのにも疲れたんじゃないかな?」
 剣を持った手で、ヨゼの左胸をとんとんと叩いた。
「どうかな、ヨゼ。苦しんでる?」
 ヨゼは、この青年に抜け落ちている物が、何か分かった。この青年は、人を殺すことに、躊躇いを感じていない。こんな恐ろしい人物がいては、地球に真の平和は訪れないであろう……。これから自分は、この場で、この青年に、殺される。これから迎える死を、噛み締めた。
「おっ、顔つきが変わったな。死の覚悟?」
 ヨゼは小さく頷く。
「そうか。じゃあその覚悟が変わらないうちに、地獄に案内してやるよ。……言い残す事は?」
 ヨゼは最後の力を振り絞り、とても小さなかすれ声で言った。
「…娘は…………ギ……は…こ…ろさな…い…………く…れ………」
 よく聞き取れなかったが、「娘は殺さないでくれ」ということだけ理解できた。
「……約束はできないね」
 ハヤテは鼻で笑うと、ヨゼを苦しませるためにそう答えた。この屋敷にいる者を全員剣で斬り倒すまでが、今回のこの計画だ。
「んじゃ、お別れだ。さよなら、ヨゼ」
 胸倉を掴まれ身動きの出来ないヨゼは、もう、抵抗しなかった。静かに目をつぶる。ハヤテの右手がゆっくりと後ろに引かれ、一瞬ぴたっと静止した。
 次の瞬間、ヨゼの心臓は剣に貫かれた。全身を激痛が襲った。ハヤテの顔に赤い鮮血が飛び散る。ゴロゴロ……と雷が唸り、部屋の壁にパッと二人のシルエットが映し出された。
「ぐ……あ……」
 ハヤテは冷ややかな目で、ヨゼがもがく様子を眺めていた。やがて十分その姿を堪能し、満足した彼は、突き刺したままの剣を、ぐりっと回した。
「……ぃ…………」
 見開かれた目が裏返り白目に変わった。まだ温かい、肉の塊と化した遺体からはぼたぼたと血が滴っている。ハヤテはゆっくりと突き刺さった剣を抜く。流れる血がさらに多くなった。白銀の剣は真っ赤になり、ぬめぬめと鈍い光を反射している。
「……もう地獄に着いたか、ヨゼ。地獄ってのは、どんなところだ?」
 答えが返ってくるはずもない。
「へっ……いいザマだ」
 手に持った肉の塊を置こうと腕の力を緩めかけたその時、ハヤテは動きを止めた。足音が聞こえる。どうやら少女のようだ。
「こいつの娘とやらか」
 左手で死体を掴んだまま、右手は扉の方へ向けた。ノックが何度か聞こえ、高い声が聞こえる。その時、興奮状態にあった彼は気付かなかった。その声の持ち主が、ナギであるという事に。
 重いドアが開かれた。外からは雨の軽い音が聞こえてくる。ハヤテは相手が少女だと言う事を確認すると、容赦なく剣を振り下ろした。しかし、体を強張らせた少女の気配を感じた瞬間、火照っていた体からサーッと血の気が引いた。同時にヨゼの体がハヤテの手から滑り落ちた。そして、静かに興奮していた頭が普段の冷静さを取り戻してきた。夜目の利く彼は、真っ暗闇の中にいても、目の前にいる少女の姿をしっかりと見る事が出来た。
 まさか。こいつの娘が、彼女だった……!?
 今落ち着いて考えてみれば、以前から気付くための鍵はところどころにあった。この町で「様」などと言われるような人物は、この家の者くらいではないか。しかも彼女はどことなくヨゼに似ている。そして、さっきヨゼが言い残した言葉――娘のナギは、殺さないでくれ――奴はそう言ったのだ。頭がもっと冷静でいれば、名前など簡単に聞き取れただろう。自分とした事が、何たる失態を……。
 雷が再びあたりを明るく照らした。その瞬間、少女がハヤテの瞳を捕らえた。ハヤテは初めて、人を殺したことを後悔した。よりによって、愛した人の父親を、自分がこの手で――……。
 話し掛けようと思った。彼女ならきっと、嘘の一つや二つ話したら、信じてくれるに違いない。
 気付くと、彼女の手が自分に伸びてくる。無意識のうちに体が動き、窓辺に跳び退いた。そして、そこから飛び降りた。彼女のどこまでも純粋な心を、自分の血塗られた手で汚すわけにはいかなかった。
 打ち付けてくる雨なんて、気にならない。だけど、雨の降る空を裂いて、彼女の叫び声が聞こえてくると、こころが千の針を刺されたように痛んだ。顔が歪む。
 ぎゅっと目をつぶり眉根を寄せ、唇を噛み締め、彼はひたすらに、雨降る闇の中を走り続けた。消えてしまいたい、という思いに駈られながら……。
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