■2-2#ひとり■
夕方になった。
夕日がゆっくりと海に沈んでいく。今夜はきっと、晴れるだろう。ヨゼの体を燃やすのにふさわしい宵になる。
「どうしよう……」
今宵、ヨゼを火葬する。だがその前に、ナギは集まった大勢の人々の前に立ち、挨拶をしなくてはならないのだ。
「緊張する……」
庭に作られた簡易舞台の裏で、ナギは不安げにフレンに言った。フレンはナギの肩にそっと手を置き、ささやいた。
「大丈夫ですよ……ヨゼ様が側にいらっしゃいます。ナギ様を見守ってくださっているでしょう」
その言葉に背中を押され、ナギは人々の前に歩み出た。途端、ざわめいていた観衆は水を打ったように静かになった。ナギは緊張から、無意識のうちに胸元で手を組んだ。
集まった人々の数は多く、屋敷の広い庭をびっしり埋め尽くしている。
「みなさん、今日は来てくださってありがとうございます。父も喜んでいることでしょう」
この言葉に観衆からいくつか鼻をすする音があがった。
人々の前に立ち、今までナギを支配していたある迷いが吹っきれた。父のために涙を流してくれる人がいる。だがその涙は、本当の父に対してのものではない。父は一つ、こうした人々から隠してきたことがある。そう、それは十二年前に下した判断。
――話そう、父の死因を。
ナギは、胸元に組んだ手にぐっと力をこめた。
「父の死因について、疑問に思っている方も多いと思います。父を燃やしてしまう前に、このことについてお話したいと思います」
観衆の意識は一気にナギに注がれた。ナギは、会場全体が一つの大きな耳のように思えてきた。
その観衆の中に、ハヤテはいた。彼はナギの言葉にどきりとした。もしや、自分のことを話すつもりでいるんじゃ……。
「父は昔、大きな過ちをしました。それは……人を殺したことです」
観衆の間に緊張が走った。多くの者が驚きで息を呑んだ。
「父の会社に勤めていた夫婦の失敗に腹が立ち、雇った殺し屋に殺害することを命じたのです。それによって、一人の少年が悲しみと孤独の世界に放り込まれました。それから一年後、彼によって父は、妻――私の母トリウを亡くしました。そして憎まれ続けて十二年経ち……おととい、自分の命を亡くしました。父は……殺されました」
観衆からは色んな声が上がった。ヨゼを殺した者をののしる言葉、逆にヨゼに幻滅したという言葉、ナギを案じる言葉……。ナギは深呼吸した。
「でも、これだけは言わせてください。父を殺した少年のこと……どうか悪く思わないでください。少年もまた、被害者なんです。父によって不幸にされ、人生を壊されたんです……」
ナギはいつの間にか涙を流していた。みんなに分かってもらいたい。けっしてハヤテだけが悪いのではない、と。ハヤテが父を殺したのは、もともとは父のせいだったのだ、と。
ハヤテは胸が熱くなった。自分のために、彼女は人々の前であんなことを言っているのだ。彼女は必死に、本当なら憎くて仕方のないはずの自分の罪を、少しでも正しいことにしようとしているんだ。そしてそれは、今まで自分が望んでいたことでもあった。ハヤテの頬も、涙で濡れた。
今すぐ飛び出して、強く、強く抱きしめたい。この熱い、熱い想いを伝えたい。ハヤテは思わず一歩足を踏み出した。
そのときだった。あやしげな影がナギに向かって凄まじいスピードで近づいている。ハヤテはその優れた動体視力で、それが人だと分かった。
(ナギを狙ってる!)
ハヤテは目の前の人の壁を押し分け、駆け出した。
(間に合うか……?)
一瞬、ハヤテの脳裏に最悪の映像が流れた。間に合わないハヤテ。ナギを容赦なく斬りつける影。血まみれになって叫ぶナギ。
(……いいや、間に合わせてみせる!)
目の前の人と人の間から、ナギの姿が見えた。彼女はまだ影に気付いていない。
(もうすぐだ!)
最後の人の壁を押し分け、ナギの立つ一段高い舞台に駆け上った。ハヤテ――ナギの目には見知らぬ青年に映る――に気付いたナギは目を丸くしてる。ハヤテはナギに正面から飛びついた。そして強く抱いた。ちゃんと彼女の頭を腕で守った。二人はステージの上を転がった。
――バキィッ!
後方から凄まじい音が聞こえてきた。ハヤテはナギに覆いかぶさり、衝撃から彼女を守った。観衆からは叫び声が聞こえる。
爆風が止むと、ハヤテはゆっくりと体を起こし、先ほどまでナギが立っていた場所に目を向ける。そこは黒く丸く焼け焦げ、プスプスと音を立てながら煙があがっていた。
ハヤテは立ち上がると、ナギに手を差し伸べた――二人が初めて出会ったときのように。ナギは何も言わず、その手を取った。すると観衆から大きな拍手と、歓声が上がった。
ハヤテと目が合うと犯人は小さく舌打ちし、ぱっと高い木の上に跳ね飛び、そのまま逃げていってしまった。
(あれは、同業者だ)
ハヤテは哀しかった。あいつは誰かに雇われて人を殺している。会ったことも話したこともない人間を、何人もその手にかけてきたのだろう――自分と同じように。
ステージの陰からフレンが飛び出してきて、二人を舞台から下ろした。そして飲み物を持ってくると言い、すぐに駆けて行ってしまった。
「……あの」
ナギの震える声を聞き、ハヤテはゆっくりと彼女に顔を向けた。
「ありがとうございました。あれはきっと……父のライバルだった者が放った刺客でしょう」
ナギは怪訝な表情をしていた。まるで何かを思い出そうとしているかのように、静かにハヤテの顔を見つめている。ハヤテはその視線に気付いていないふりをして、ふう、と安堵のため息をついた。もちろん演技だ。
「そうですか……でも、よかった。お怪我がないようで、なによりです」
ハヤテはぺこっと頭を下げる。
そのとき、ナギの目がはっと見開かれた。
「……ハヤ、テ」
ハヤテの全身に、震えが走った。
「……はい?」
「とぼけないで! ハヤテなんでしょう?」
「何をおっしゃっているのか、分かりかねますが……」
パンッと小気味良い音がした。
ハヤテは、はたかれた左頬がじんじんと痛み出すのを感じた。
「やめて……あなた以外にありえない」
ナギは涙に濡れる顔をぱっと上げた。
「こんな気持ちになるのは、あなた以外にありえないの!」
そう言うと、ハヤテの胸に抱きついた。
「……ナ、ギ……」
ハヤテはためらいがちに、ナギの背に腕をまわした。そして変装を解いた。ナギの前では、本当の自分でいたい……。
「あなたが憎い……」
ふと、ナギがつぶやいた。
「でも、好きなの……」
ハヤテは黙っていた。今腕の中にいる娘は、自分にとっては殺さねばならない存在なのだ。殺人の目撃者なのだから。手が震えた。今なら、簡単に殺すことができる。絶好のチャンスではないのか?
ところが、ナギがハヤテから離れた。両手には銀色に輝く小刀が握られている。ハヤテはそれの意味することが分かったのか、彼女に答えるかのように腰元に手を伸ばし、隠し持っていた短剣を取り出した。二人の間は数歩と離れていない。
ナギはさっと小刀をハヤテに投げた。ハヤテはそれをいとも簡単に短剣で弾く。その途端、目の前に迫ったナギに驚いた。投げた小刀はフェイントだったのだ。短剣で弾いたことでハヤテの反応が遅れた。すれ違いざま、腕を浅く切られた。
「……なんでそんな技を身につけた?」
ハヤテに聞かれ、ナギはふっと笑った。
「自分の身を守るため、そしてあなたと……少しでも対等に戦うために。これから守護の者に、いろいろ教えてもらうつもり。これは昨日、とりあえず教えてもらったことよ」
ナギは地に落ちた小刀を拾い上げ、大きく一振りした。小刀に付着した血がぴっと飛んだ。
「私たちは、お互いの姿を見つけるたびに戦わなければならない……そうでしょ?」
「……ああ、そのとおりだ」
「でも、相手にはせるこの想いは……変わらない、よね?」
ハヤテはたまらなくなってナギを抱き寄せた。
「ああ、変わらない……俺たちは憎みあい、そして、愛し合ってるんだ……」
そしてすぐに離れた。
「じゃあな」
ナギは、駆け出そうとするハヤテの腕を思わずつかんだ。
「ハヤテ」
彼はゆっくりとナギを振り返った。
「どうした?」
ナギは一度、大きく息を吸うとささやいた。
「……好き」
するとハヤテの顔に笑みがこぼれた。
「俺もだ、ナギ」
二人の唇が触れ合った。
一瞬重なった唇はすぐに離れ、ナギの手からハヤテの腕がするりと抜けた。彼は走り去ってしまった。
ナギは目をつぶったまま、その場に崩れこんだ。
頬を滑り落ちた涙は、乾いた土に吸い込まれていった。
*
ザザァ……ン……。
美しい海。波が静かに揺れている。月の銀の光を映し出して、鏡のかけらが散らばっているように見える。
ナギは海に面する崖の先端に立ち、潮の香りを胸いっぱいに吸い込んだ。そして一つの透明なビンを取り出し、コルクの栓を抜いた。この場の空気に合わない、ポンッと明るい音がした。
「さようなら、パパ……どうぞ安らかに」
そうつぶやくと、手の上でビンを逆さにした。中身を全て手の上にあけると、ナギはその両手を月に捧げるかのように頭上に上げた。白い灰が風に乗り、ふわりと飛んだ。さらさらと音もなく、ヨゼは宵闇にまぎれて飛んで行った。それはとても幻想的な光景。やがて灰は全て飛ばされ、夜空へと旅立っていった。ナギの手の中には寂しさだけが残った。
顔の前に下ろした両手を見つめた。指と指の間に、まだ灰が残っている。
(パパ……)
膝の力が抜け、ナギはその場に座り込んだ。気付くと側にはフレンがいて、ナギの肩にそっと手を添えていた。ナギは、フレンの顔を見た途端にあふれる涙に負け、彼女のあたたかい胸の中で泣いた。フレンはそんなナギをぎゅっと抱きしめて、一緒に涙を流していた。
「ナギ様……これで終わりです」
フレンがつぶやいた。
「よく、頑張りましたね……これほど立派に葬儀をしきれた人を、私は未だかつて見たことがありませんわ」
「ありがとう、フレン……」
ナギはフレンの胸から顔を離し、彼女の目をまっすぐに見つめた。
「でもね、私は独りじゃないわ。あなたや執事、守護の者、この町の人……私はいつも、一人でいて独りじゃない。大勢の人の優しさの中ですごせてる」
もちろん、こころの中心にはハヤテがいる。憎みあいも愛し合いもしているハヤテが。
ナギは疲れた笑みを見せた。
「フレン、本当にありがとう。大好きよ」
「ナギ様……」
二人は抱擁を交わした。お互いを確かめ合うように、やさしく、強く。