凪いだ海に駆ける疾風
はじめに


序章


第一部:潮の香の中


第二部:生き地獄



■1-9#ヨゼの日記■
「ナギ様……」
 次の日の朝、屋敷に帰ると執事と世話係たちに出迎えられた。皆、泣いていた。
「ナギ様、こちらへ……」
 執事に連れられ、ナギは今は誰にも使われていない部屋に行った。執事は無言で、ナギに部屋に入るよう促した。ナギはそれに従った。この部屋にいったい誰がいるのか、すぐに分かったからだ。部屋の窓際に置かれたベッドの真っ白な掛け布団が、窓から差し込む朝の光を反射している。
「パパ……」
 清められたヨゼの体は、冷たかった。
「パパ……」
 呼びかけても、もう動かない。どんなに願っても、優しく抱きしめてはくれない。
 後方の扉の近くで、執事が鼻をすすっていた。
「いつまでも、大好きだよ、パパ」
 ナギの白い指が、ヨゼの頬に乗せられる。目の下からあごにかけて走る細長い切り傷があった。ナギはそれを、震える指でゆっくりとなぞった。
「苦しかったよね……痛かったよね……でも、やっと楽になれたんだよ。パパがずっと望んできた自由が、手に入ったんだよ……」
 最後にナギは、ヨゼの額にキスをした。
「さようなら、パパ……安らかに」
 ベッドから数歩離れ、しきたりのお辞儀をすると、ナギは扉へ歩いた。執事の前で立ち止まり、礼を言った。父の体を清めてくれてありがとう、と。すると執事は頭を横に振り、手にある何かをすっと差し出した。
「ナギ様、これを……」
 執事が持っていたのは、三冊の厚い小さなノートだった。無地の青い表紙に金の文字で「Diary」と書かれている。
「これは、ヨゼ様が書いていた日記です。生前ヨゼ様は、この日記をナギ様に見せたいとおっしゃっておりました」
 ナギはそれを受け取り、パラパラとめくった。あるページが目に飛び込む。
『七月十四日 遂にうまれた! トリウに似ていてとても目の大きい、可愛い女の子だ。名前はもう決めてある。港町の別荘から見える海のように、穏やかで美しい娘になるよう、「ナギ」と名付ける。さすが詩人だけあり、トリウは名付け親にぴったりだ。今日は一日があっという間だった。私は、……』
「……パパ……」
 ナギの頬は涙に光っていた。思わずベッドに眠る父を振り返った。
 ――お願い。もう一度目を覚まして、私に笑いかけて……。
 執事は、静かにナギの肩に手を置いた。
「これには、悲しいかもしれませんが、トリウ様の死に関することも書いてあるそうです。ご主人様は、毎日欠かさずこの日記を書いておりました」
 ナギは必死に声を絞り出し、お礼を言うと重い足を引きずりながら部屋に戻った。父の日記を机に放り投げると、ナギはベッドに崩れ落ちた。全身に力が入らず、まるで抜け殻のようだ。
「パパは、いない……」
 ぼんやりと開いた目から涙がじわっとにじみ、こぼれ落ちた。 これで私は一人になってしまった。母は殺され、父もまた同じように死んでいった……。それに、私以外にこの家の子どもはいない。つまりこの屋敷の主人は、私なのだ。父の莫大な財産はどうすればいいのだろう? 私に守るだけの力があるだろうか? きっと父のライバルだった者たちは、父の財産を不当に奪い、世界一の大富豪になろうとするに違いない。私のような小娘では、とても太刀打ちできない。
 ナギは泣き叫んだ。悲痛に満ちたそのからだが張り裂けんばかりに。
(私に、何をしろと? ハヤテの存在を警察に告げろと? ああ神様、あなたはなぜこんなにもひどい仕打ちをなさるのですか……!)
 やがて泣き声は沈んでいき、哀しげな嗚咽に変わった。喉が痙攣し、うまく息が出来ない。
 ふと見上げた机の上に、青い本が乗っている。ナギは目をこすり机に向かい、父の日記の表紙をめくった。整った父の字が目に飛び込んできた。これは三冊のうち一番古く、十三年前の春から書かれていた。ナギは最初から順番に読んでいった。たいていが会社のことで埋め尽くされている。その文を読んでいてナギは、自分が幼いときに抱いていた父への漠然とした恐怖を思い出した。
(あの頃のパパは、いつもピリピリしていたから……きっとそれが怖かったんだわ。でも、ママが亡くなって、パパはいつの間にか人が変わってた……。きっと、ハヤテにママを殺されて……改心しようとしたのね)
 ナギは、口の端に不気味な笑みを浮かべた。改心しても、何の意味があったのだろう? こうして父は不運な死を遂げたのだ。
 しばらく夢中で読みふけっているうちに、あるページに行き着いた。ナギはその内容を見て、鳥肌がたった。それは今までのヨゼの字とは思えない、書きなぐった字だった。
『四月九日 我が社に勤める夫婦が、大事な情報を他の会社に売ったらしい。なんと腹立たしいことだろうか! その会社に怒鳴りこんだら恐れをなして、すぐに情報を返してくれたが……実に許しがたい行為だ。どうやら夫婦はその会社に脅されたらしいが、許すわけにはいかない。こうなれば、……』
 ナギはすぐにぴんときた。
(ハヤテの両親のことだわ……!)
 そのページを読み進めるうちに、ナギは吐き気がしてきた。なんて恐ろしいことを書いているんだろう!
 そこにはハヤテの両親をどのようにして罰するつもりなのか、詳しく書いてあった。いくつか処罰の候補が上がっていて、その中に「殺害」の文字があった。
 気付くと、ナギは泣いていた。声は出ない。ただ、涙が頬を伝うだけだ。
(なんて愚かな行為……! 怒りを自制できなかったパパは、ハヤテによって殺されても、仕方のないことだったのかもしれない……)
 ナギはそう考えた。だが、またすぐに別の思考が膨れ上がった。
(でも、ハヤテがパパを殺したのも愚かな行為に変わりはない。結局は、自分を抑えることのできなかった二人が生んだ悲劇なんだわ……)
 ナギはヨゼの日記の一冊目を読み終えると、椅子の上で大きく伸びをした。時計を見ると、正午を少しすぎたところだった。
 窓の外では、雨に濡れた木々から雫がこぼれ、まるで涙を流したかのように鈍い銀色の光を放っていた。
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