凪いだ海に駆ける疾風
はじめに


序章


第一部:潮の香の中


第二部:生き地獄



■1-1#一目惚れ■
 玄関扉の前で、おろおろと行ったり来たりを繰り返していた男が、ふと顔を上げた。彼の視線の先にある扉がゆっくりと開かれる。
「……ナギ!」
 ナギを連れ、執事と世話係達がぞろぞろと入ってきた。
「ご主人様、ナギ様を無事に“捕獲”しました」
 執事が笑いながら言った。男も苦笑を浮かべ、答えた。
「そうか、“捕獲”ご苦労であったな」
 執事と侍女たちはそれぞれ一礼し、その場を去った。
 男はナギのほうにくるりと向き直ると、まっすぐに娘の目を見つめた。ナギも父の視線から逃げはせず、堂々と立ち向かった。
「……ナギ、そんなに脱走が楽しいか」
 ナギはふんと鼻をならすと、挑戦的な笑みを見せた。
「ええ、とても楽しいわ。外の潮風は気持ちが良いし、私はにぎやかな所が好きだから」
 全く反省の色を見せない娘を見て、男――ナギの父、ヨゼ――は深くため息をついた。鼻の下の短いひげが小さく揺れた。
「いいか、ナギ。世の中には、わたしの財産目当てでお前を狙っている者が大勢いる。もちろん、この町にそんな輩はいないと信じておるから、わたしはここに引っ越してきた。だがそれでも、危険が全くない訳ではない。だからわたしに声もかけず外出するのはやめなさいと言っているんだ。なんども聞かせただろう?」
 父親の説教を聞き、ナギは、不機嫌そうに口をとがらせ、ふてくされて返事をした。
「ええ、何度もね」
 そんな娘の言葉と態度に、ただただため息がでるヨゼ。いつか分かってくれると信じたいものだが、この調子だと何年先になることやら……。
「死んだトリウに頼まれたんだよ、お前を危険な目にあわさないでくれって」
「その事も、何度も聞いたわ。だけど、ママのお願い、ちゃんと守ってるじゃない。危険な目にあってないもの」
「ナギ……今はまだあわなくとも、いずれ、そういう事が起こる可能性はあるんだよ。傷付いてからでは遅いんだ」
 ナギはほおを膨らませた。
「別に私、お姫様じゃないし。いいじゃない、多少傷があってもさ」
 治る傷だけじゃないかもしれないんだぞ――そう言おうとして、ヨゼはやめた。
(この子にこんな恐怖を知ってほしくない。今はまだ――)
 ヨゼはため息をつくと苦笑いし、ナギの背中をそっと押した。
「わたしにとっては、大切なお姫様だ。……さ、部屋に戻りなさい」
 ナギは何か言おうとしたが、父があまりに悲しそうな目をするので、反抗せずに部屋に戻った。
 部屋ではナギのお世話係が掃除をしていた。彼女の名はフレン、ナギにとってはお姉さんのような存在だ。フレンはナギに気付くと一礼し、また掃除に戻った。
「……ねぇ、私、いつになったら自由に外へ出入りできるようになるの?」
 ナギがフレンに尋ねると、彼女は手を止めて、ナギににっこりと微笑んで言った。
「ナギ様のおてんばがなおるまで、無理でしょうね。脱走なんてせずに、守護の者を連れてお出かけなされば良いのに」
「嫌よ。ひとりでゆっくりと街を見たいんだから。それに守護の人って無愛想だし、何だか恐いんだもの」
 その言葉にフレンは吹き出した。
「仕方ないですわ。守護は、お嬢様と面白おかしくお喋りするためにいるのではないもの」
「ちぇっ」
 ナギが不満そうにベッドに倒れ込んだので、フレンはまた掃除に戻った。
(あの人……また会いたいな……)
 まだ青年の腕のぬくもりが肩に残っている気がした。彼の姿を思い出して、ナギは耳まで赤くなった。
「あらナギ様……お顔が真っ赤ですよ?」
 掃除を終えたフレンが笑いながら言った。
「えっ?」
 ナギはあたふたと手で頬をおさえた。
「さては……恋ですね」
 フレンはわざと低い声で、まるで探偵のような口調で言った。
「その慌てよう……そして何よりため息が多い。恋した少女の典型的な症状ですな」
「そ、そんなことないよ! 恋なんて……ねぇ?」
 フレンはふふっと微笑んで、ナギが座るベッドの横に腰を下ろした。
「声が裏返ってますよ。嘘が下手なんだから、ナギ様は」
 ナギは肩をすくめた。
「うー、参りました。……やっぱりフレンには分かっちゃうか」
 ナギはフレンに、今朝出会った青年のことを話した。
「……ねぇ、あなたは誰かを好きになったことはある?」
 話の最後に、フレンに一言聞いてみた。フレンは驚いたようにナギを見たが、照れくさそうに、顔をそらした。
「ええ、ありますよ」
 彼女は優しい微笑を浮かべていた。その横顔は、本当に美しかった。
「まだ小さい頃ですけど、隣に住んでいた男の子のことが好きでした。その男の子はすぐに引っ越してしまって、結局一度も話した事はないのですけどね」
「……なんか、悲しいね」
「あら、そんなことはないですよ。ずっと一緒にいてあの子の嫌なところを見つけてしまうより、良いあの子だけを心に残せて、幸せだわ」
「……そういうもんなのかなぁ」
「ふふっ。そういうもんなんです」
 ナギは今日あった青年、ハヤテの顔を思い浮かべた。彼には悪いところなど無さそうに思える。爽やかで、優しくて、格好良くて……。好きになった彼のことを、もっと知りたいと思った。
 ナギの横顔を見て、フレンは優しく微笑んだ。
「……でも、恋にはいろんな形がありますから……これはわたしの場合で、ナギ様にはもっと違う形があるはずです」
「そう、なのかな」
 私には、いったいどんな恋が待っているのだろうか。彼と一緒に、楽しい毎日を送れるのだろうか。
 空想にふけっていると、突然おなかがなった。
「わっ」
 ナギはあわてておなかをおさえた。しかし、すぐ隣にいたフレンにはばっちり聞かれてしまったらしい。彼女はくすくすと笑っていた。ナギは再び真っ赤になって、うー、とうなった。
「今朝は脱走したから、なんにも食べてないの!」
 そう言うと、ベッドから飛び降りて食堂へ全力疾走した。
 ――あの人も、こうやって私のことを考えてくれているのかな?
 ナギは、自分の緩む口元に気付かずに走った。
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