凪いだ海に駆ける疾風
はじめに


序章


第一部:潮の香の中


第二部:生き地獄



■2-4#頼み■
 やっぱり、諦められない。
 ナギはベッドに寝そべりながら思った。
 やっぱり、守護のみんなと一緒にトレーニングをしよう。レイさんがなんと言おうと構うもんか。もう、私にはママもパパもいない。私の行動を制限するものはもうなにもない。
 ナギは勢いよくベッドから飛び降り、階段を駆け下った。そして緑でいっぱいの庭をつっきり、〈修行の家〉に飛び込んだ。トレーニングはちょうど休憩に入っているらしく、額に汗を光らせた守護たちが壁にもたれていた。レイはその場にはいなく、アルが驚いたように顔を上げ、ナギを見つめた。
「レイさんは?」
 アルはひょいと立ち上がると、きょろきょろとあたりを見回した。
「そう言えば、先ほど出て行きました。門衛のところかもしれません」
 ナギは微笑み、ありがとうと言うと再び駆け出した。今度は門が目的地だ。
「レイさん!」
 門が見えてくると、すぐに門衛とレイの姿が分かった。なにやら話をしている。ナギは走りながら、もう一度叫んだ。
「レイさん!」
 今度はしっかりレイの耳に声が届いた。
「お嬢様……?」
 レイは駆けてくるナギを不思議そうに見つめていた。ナギはレイの前で止まると、膝に手をつき息を整えた。そしてがばっと顔を上げると、門衛の守護に一礼して、レイに向かった。
「どうなさいました?」
 レイはにこにこしながら聞いた。
「レイさん、やっぱり私、みんなと一緒にトレーニングする」
 途端、レイの笑顔は凍りついた。
「どうか怒らないで……。私は、この屋敷の主人として、執事や世話係のみんな、そして父が遺していったものを守れるだけの力が欲しいの。もし無理なら、せめて自分の身を守る力が欲しい」
「ですが、先ほど言ったとおり……」
「お願い。毎日することもなくて、嫌でも父のことを思い出す。そのたびに悲しくて、狂いそうになるの。このままじゃ私、おかしくなりそうだわ……そんなの、絶対に嫌。レイさん、お願いします。どうか私に守護のみんなとトレーニングさせてください」
 ナギは深く頭を下げた。お願い。どうか私に、力をください……。
「……無理です」
 ナギは、そんな! と思った。顔を上げ、レイを見つめる。
「ナギ様、わたしはあなたに戦ってすごすような一生を送ってほしくない。年頃の女の子が武術など学んでも、いいことはないでしょう。そうじゃなくても、男と女の体のつくりは違うから、ナギ様にできることには限界がある。それに、この屋敷とここにいるみんな、そしてあなたの身を守るために、わたしたち守護がいるのです。ナギ様は、自ら体に傷をつくるようなことは、しなくていいのです」
「でも……!」
「わたしは賛成できません」
 レイは二言三言門衛と話すと、すたすたと歩いていってしまった。ナギは、今まで生きてきてここまで強く反対されたことがなかったので、ちょっとショックだった。それだけ自分は甘やかされて育ってきたのだろう。
 ナギが呆然とその場に立ち尽くしていると、守護の男が心配そうに声をかけてきた。だがナギは、その声に弾かれたように走り出した。レイを追うべきだ。たった二回断られただけで、諦めるもんか!
 すぐに彼の背中が見えて、ナギはスピードをあげた。
「レイさん」
 レイがゆっくりと振り返る。
「お願いします」
 深く頭を下げ、両の拳をぐっと強く握った。だが、レイの反応は先ほどと変わらず、「駄目です」の一言を残して再び歩き出した。ナギは悔しくて、むきになった。絶対に認めさせてやる。
「さっきレイさんは、女にできることには限界があるとおっしゃったけど、私はスピードに関しては、男よりも女のほうが機敏ですばやいと思うわ。無駄な筋肉の重みがないから。私も、極端に太っているわけじゃないし、何とかなると思うの。だから、パワーよりもスピードを生かしたトレーニングをすれば、大人の男にだって負けないだけの力はつくはずよ」
 歩くのが速いレイについて行くのは一苦労だった。だがナギは必死に説得し続けた。
「私にはもう父はいないわ。これまでは父がいたから“お嬢様”として通っていたけど、今は両親をなくしたただの女の子よ。私の行動を制限するものは、もう何もないの」
 その言葉にレイの足が止まった。突然だったので、ナギは危うくレイに正面からぶつかりそうになった。彼は悲しみのこもった目で、ナギを見つめた。
「そうです。ご主人様は、もう、この世にはいない。だが想いだけは留まっている。ナギ様に、平和な暮らしをしてほしいという想いが」
「そうね、確かにそうかもしれない。でも父なら、そう想うと同時に、私に自由に生きてもらいたいと願うはずだわ」
「だがご主人様は、ナギ様の身の安全のためにあなたを自由に外に出させないと決めたような方です。ご主人様は、なによりもナギ様の人生の平和と安全を気にかけていらした」
「その平和と安全を確実なものにするために、トレーニングをしたいのよ」
「その必要はありません。わたしたち守護がいつも側にお仕えします」
「守護だって絶対じゃないわ。守護の力だけでなく、私もそれなりに戦えるのだったら安心じゃない」
「トレーニングをすること自体が平和じゃないと言いたいのです」
 ナギは言い返されるごとにイライラした。何を言っても賛成してくれる気配はない。ついにナギは弾けた。
「すでに私は平和な生活からかけ離れているわ!」
 突然ナギが怒鳴ったものだから、レイは驚き黙ってしまった。
「両親は殺され、私もいつ殺されるか分からない。父のライバルだった者たちは私を憎み、遺産を不当に奪い取ろうとしている。まだまだの小娘なのに莫大なお金を管理し、この屋敷の主人を任された」
 ナギは全ての怒りを声にして吐き出した。
「すぐ側には死がつきまとい、見たことも話したこともない人から憎まれ、呪われる。明日、ちゃんと目を覚ますことができるかも分からない! これのどこが平和だというの? ……それに」
 ナギは一瞬、言うかどうかためらった。だが一度白熱した気持ちはすぐには冷めない。
「私は、心から好きになった人に両親を殺された。復讐をしたくてもそれが出来ない。憎いはずなのに、今すぐにでも殺してやりたいはずなのに、愛してしまった……!」
 レイは驚きで大きく目を見開いた。あごは小刻みに震えている。
「ナギ、様……?」
「そうよ……私は知っている。犯人の名前だって、顔だって、知っているの。居場所も分かるわ。でも、誰かに殺されるあの人を見たくない……殺すなら、私の手で……」
 ナギの気持ちは怒りから、悲しみに変わった。涙がほろほろとこぼれる。
「大好きだから、本当に愛しているから、あの人が死ぬときはきっと私が殺すの。歪んでしまったけど、この愛は本物に違いない……」
 レイはふと、ナギは狂ったのだろうか、と思った。父親が死んだという悲しみのせいで、発狂してしまったのではないだろうか。先ほど自分でも、「狂いそうになる」と言っていたではないか。
「ナギ様、それは本当の話なのですか?」
 ナギはつっと顔を上げ、一言答えた。
「……嘘偽りない話です」
 レイはしばらくナギの深い瞳を見つめていたが、ふと目線をそらすと、すたすたと歩き出してしまった。
(諦めるしか、ないのね……)
 ナギは地面に崩れおちた。もう、ハヤテと対等に戦うこともできなくなってしまった。そして絶対に言わないと決めていたこの気持ちを人に打ち明けてしまった。このせいで、きっと私とハヤテは危うい橋を渡ることになるのだろう。ひっそりと、ふたりだけで決着をつけるという約束を破ってしまったことになる。
 そのとき、ふとレイが足を止めた。そしてこちらを振り返らずに、朗々と響く声で言った。
「ナギ様、トレーニングは厳しい。そして、訓練のあいだは、あなたは“お嬢様”ではなくなる。ただの娘の、ナギだ」
 ナギは涙で濡れた顔を上げた。
「強い意志を持った者は、何をしても優れているものだ。戦いにおいても、意志のない奴は死んでゆき絶対に曲げない意志を持っている者が生き残る」
 レイは振り返ると、笑顔で言った。
「わたしが、あなたを立派な戦士に育て上げましょう」
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