凪いだ海に駆ける疾風
はじめに


序章


第一部:潮の香の中


第二部:生き地獄



■2-1#重み■
 三日後、ヨゼの〈霊鎮め〉が行われた。
 〈霊鎮め〉とは、死んだ者の魂がこの世界に留まり亡霊となって人々を脅かすのを防ぐための儀式だ。遺体の側で、その人と親密に関わった者が祈る。夜、月が夜空のてっぺんに来るころまで遺体の側にいてあげるのだ。そうすることによって、死んだ者の魂は安心して天へと旅立てる。そう、信じられている。
 ヨゼの遺体は、色々な催し物で使われてきた屋敷の大広間に安置された。そして、執事とナギ、さらに守護のレイだけで、ヨゼの遺体の前で静かに祈った。三人は、それぞれ自分のこころの中でヨゼに話しかけるのだ。みな、ヨゼとの思い出をやさしく語った。こんな事もあった、あの時はこう思ったものだ……。
 やがて月が顔を出し、ゆっくりとのぼり、空の一番高いところに達した。
 執事はゆっくりと、組んでいた手を解いて顔を上げた。
「もう時間です。参りましょう……」
 ナギとレイはすっと立ち上がり、しきたりのお辞儀をすると、執事の後に続いて広間を出て行った。そこには、ただ一人、ひっそりと眠るヨゼだけが残った――。

 翌日の朝。今日は〈霊別れ〉が行われる。〈霊別れ〉は、〈霊鎮め〉によって魂の抜けた遺体と別れを告げる儀式。この儀式には、〈霊鎮め〉で祈りを捧げられなかった者も参加することができる。遺体の前で、順に別れの言葉を告げるのだ。多くの者は腕いっぱいの花束を抱えてきた。
 ヨゼはもともと顔の広い人物だったので、この港町からだけでなく各地からたくさんの人がやってきた。屋敷の大広間に人々が入りきらず、仕方なく屋敷の外で順番を待っていてもらう者も大勢いた。それでも、人々は文句を言わなかった。みんな、遺体の前で言い合いをするなど愚かなことだと知っているからだ。
 ナギはというと、一日中忙しく動き回っていた。こなさなければならない仕事が山とある。ナギ本人が言わねばならない挨拶以外は、全て執事や世話係、守護の者に〈霊別れ〉の儀式の監督を頼んだ。その間ナギは大量の書類とにらめっこを続けた。ナギには難しすぎる内容も多く、執事に大変助けられた。ほとんどはヨゼの財産に関することで、ナギは頭がくらくらするような大きな数字の、莫大な遺産を譲り受けることになった。同時に、ナギの肩にはずっしりとした重みが加わった。財産を守りぬけるかという不安、そしてヨゼのライバルだった者たちからの威圧だった。
 “普通の少女”のはずだったのに。ナギは思った。
 まだまだ若い。経験も足りない。なのに、こんな莫大な遺産を抱えて生きることになるなんて。ナギの中で「絶対」だった父の存在はあっけなく消え去り、手元には憎しみと恐怖だけが残った。なんでこんな物を遺して逝ってしまったんだ、とヨゼを恨んだ。
(――ハヤテなら)
 ナギの頭の中に、金髪の青年の姿が浮かび上がった。
(ハヤテなら、きっと力を貸してくれるのに……)
 何度目か分からない、こみ上げてきた涙を飲み込んで、ナギは再びデスクに広げられた書類に向かった。いつ終わるとも知れない、長い作業が続く――。

 *

「何やっとんじゃ!」
「す、すみません……」
 エンシがサウに怒鳴りつけた。
「まだ着替えとらんのか! ご主人様に別れの挨拶もしないなんて、わしゃ絶対嫌だぞ!」
 サウ――変装したハヤテは、エンシに聞かれないよう、小声で毒づいた。
 自分が殺した奴の葬式に行くなんて!
 なんておかしな話だろうか。そして何より、あのお屋敷に行くということはナギに近づくことになる。変装しているので気付かれることはないだろうが、やはり心配だ。
 ちなみに今のハヤテ、つまりサウは短く刈った黒髪で、同じ色の瞳、太い眉をしている。面長でいかにも優しそうな青年、といった感じだ。実際のハヤテは少し長めの金髪で、青い瞳、鋭い眼差しを持つ。人形じゃないか、と思うくらい整った顔立ち。今までに、ハヤテの変装を見破った者はいない。彼は殺しの次に変装がうまいのだ。
「エンシさん、準備できました」
 エンシはふんと鼻を鳴らした。
「まったく、何分待たされたか」
「……すみません」
 ハヤテには分かっていた。エンシは、本当はかなりのショックをうけているのだ。このように怒っているのは単なる強がりで、本心からではない。以前のタロの死より、ヨゼの死はひどい衝撃だったのだろう。
 二人は家を出て、丘の上の屋敷に向かった。屋敷の前は、二人と同じようにヨゼに別れの言葉を告げるため、人々がごった返していた。これぞ黒山の人だかり。みな驚きと悲しみで暗い表情だった。
 ふと、ハヤテは叫んでしまいたい衝動に駆られた。――この俺がヨゼを殺したんだ! ……と。自分という人間のこと、昔ヨゼが下した決断によって殺された夫婦のこと、そしてどうしてヨゼが死ぬに至ったのか……分かってほしかった。俺は悪くない。そう、真の悪者はヨゼなのだ、と……。
「サウ、怖い顔をして、どうした?」
 エンシがハヤテの顔をのぞきこんだ。ハヤテははっと我に返った。
「……人の死が身近にあるって、なんだか恐ろしいなと思って」
 スラスラと嘘が口をついて出てきた。
「考えてしまうんです。どうして人は死ぬんだろう、とか、死んだ後はどうなるのか、とか」
 ハヤテは意味ありげに空を見上げた。
「どうして人は、自分と同じ人間を殺すのか、とか……」
 見事な快晴だった。
「まったくだ。お前はまだまだ若いのに、世の中をいい目で見ておる……」
 エンシも空を見上げた。

 淡い水色のキャンバスに、一筋、飛行機雲がどこまでも続いていた。
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