凪いだ海に駆ける疾風
はじめに


序章


第一部:潮の香の中


第二部:生き地獄



■2-5#父子■
「おや、ありゃナギちゃんじゃないか? レイさんも一緒だ」
 エンシの指差すほうを見て、ハヤテも頷いた。
「本当だ」
「むむ、あの建物は守護がトレーニングをする場所……ナギちゃんには用はないはずなんだがなぁ……」
 ハヤテはその言葉に、はっと気付いた。ナギが言っていた。守護の者に、いろいろ教えてもらうのだと……。
(本気……なのか)
 ハヤテは悲しみのこもった瞳で、ナギが消えた方を見つめていた。できることなら戦いたくない。自分の手で、美しい彼女に傷を付けたくない。でも、誰かが彼女を殺そうとしていたらそれを許せないし、誰かの手によって彼女が死ぬのなら自分の手にかけて殺したい。矛盾した自分の気持ちに腹が立ってしかたなかった。
「こらサウ、なにぼけっとしとるんじゃ。さっさとやらんと終わらんぞ」
 エンシのお怒りがとんできて、ハヤテは肩をすくめた。そうだ、今俺はサウなんだから、ナギのことは考える必要はないんだ。ちゃんと仕事をしよう……。
 仕事に没頭していくうちに、植木職人という仕事がとても面白いことに気付いた。よくエンシが言う言葉は、「声を聞け」だった。何をするにも、花の声を聞け、木の声を聞け、葉の声を聞け、土の声を聞け……そればかり言うのだ。最初は馬鹿らしいと思っていたが、気のせいだろうか。まるで芝がささやいているように聞こえる。
「お前はなかなか才能がありそうだな」
 エンシが愉快そうに言った。
「聞こえるだろう? 植物たちの声が。彼らは、いつも歌っているんだ。この声が聞き取れれば、たいしたもんだ」
 エンシがてきぱきと仕事を進めるのを横で見て、同じ事を繰り返す。仕事は、武術をコピーするのよりよっぽど簡単で、ハヤテはすいすいとやってのけた。その覚えの早さにエンシは舌を巻いたようだ。
 ハヤテの助けがあってか、エンシの予想よりはるかに早く仕事は終わった。もうすぐ日没だ。真っ赤に燃える太陽が、ゆっくりと海に沈んでいく。
「いやぁ、まさか今日中に終わるとは思わなかった。せいぜい三日がいいとこかと思っていたが……お前の覚えの早さには、本当にびっくりする」
 なぜだか分からなかったが、ハヤテは嬉しくなった。殺し以外で褒められたのは、これが初めてかもしれない。だからだろうか? こころがほっこりとあたたかい。
(このまま、何の影も嘘も持たない人間として生きていけたらなぁ……)
 ハヤテは、死神だった。剣を持った彼はそのとき“人間”という仮面を脱ぎ捨て、“死神”になるのだ。こころを持つ人間でいたら、自分が辛いと分かっていたから。“死神”の自分なら人を殺すのをなんとも思わない、冷酷な存在でいられる。だがそれでも、“人間”の自分も失わずに保ち続けていたのは、なぜだろう? 一度血に濡れた手は、二度とその鮮明な赤を落とすことはできない。だから、もう、“人間”は必要ないはずだった。だけど、久々に浮き上がってきたそれに、ハヤテは戸惑っていた。必要のないもの。すぐに捨ててしまえばよかった仮面。それが今、彼のこころに迷いをうんだ。
(結局俺は、優秀な殺し屋じゃなかったのか……)
 彼の見つめる先、血のような燃える真紅に染まった海が、てらてらと重い光を放っていた。

 *

 夜、家に帰ってきてハヤテは夕飯のしたくを始めた。ここで住むようになってから、夕飯のしたくは彼の仕事だ。いそうろうするからには、それなりの家事もしなければならないと思ったし、そうすることによってエンシのサウへの好感度も上がるだろうと推測した。その推測は立派な事実となり、サウという青年はなんの規則を強いられるでもなく、自由に行動できた。それだけ、エンシに信用されていた。
「いつもありがとう、サウ」
 エンシがテーブルにつきながら言った。今日のメニューは、この町でとれる新鮮な魚の照り焼きと、かぼちゃの冷たいスープだ。自分の健康を気にかけているエンシのために、サラダも盛り付けた。
「いただきます」
 二人は声を合わせて言い、あとは黙々と食事を進めた。小さなテーブルの上は、二人分の食事を乗せるだけでずいぶん窮屈になる。
 ハヤテは、エンシに奥さんのことをまだ聞けずにいた。きっと、そんなにきれいな別れではなかったのだろうと想像できた。あの飾られた写真の数と、その写真にあった涙のあとと大きなバツ印。どこかエンシのこころの中で、トゲとなって突き刺さっているんじゃないだろうか。もし自分がそれを取り除ければ、エンシは更に“サウ”を気に入るだろう。きっと疑うということを忘れ、サウに何かあったときはいい味方になってくれる。
 二人とも食事を終え、ハヤテが立ち上がった。エンシと自分の食器を流しに下げた。そしてお湯を沸かし、お茶を淹れ、エンシの前においた。
「ありがとう」
 エンシは短い礼を言うと、茶をすすりはじめた。ハヤテも自分の湯のみで茶を飲んだ。今日もうまく淹れられた。一口飲んで、ほうと長いため息をついたエンシを見て、ハヤテは言った。
「エンシさん。前から思ってたんですけど……」
 エンシはゆっくりと顔を上げ、ハヤテを見つめた。
「ん?」
「この家、エンシさん一人で住むには広すぎますよね……ご家族、いらっしゃらないんですか」
 一瞬、エンシの顔が歪んだように見えたが、すぐにいつも通りにもどった。
 長い沈黙が続き、エンシが重い口を開いた。
「以前は、わしの妻と、息子ふたりと一緒に暮らしとった」
 ハヤテは真剣にエンシの話を聞いているかのように見せた。
「妻はミリナといってな、やさしい女性だった。ふたりの息子も、じつにいい子だったよ。わしは、彼らを愛していた……どんな時も、彼らの笑顔のためにわしは生きていた。だが、ある日突然、ミリナと息子たちの行方が分からなくなった」
 エンシは窓の外、海の遠くを見ていた。
「数日後、三人は遺体で見つかったよ……。自殺、だそうだ。ミリナがふたりの息子を胸に抱き、〈必死の崖〉と呼ばれる、自殺の名所でもある絶壁から飛び降りた」
 ハヤテは、少し驚いた。何かあるだろうとは思っていたが、自殺だとは……。
「息子たちは、まだ三歳と五歳だった。……もう、十五年も前の話だがな。結局理由も分からないまま、捜査打ち切りとなった」
 話し終えると、エンシは再び黙りこくった。ハヤテもしばらく言うべき言葉が見つからず、気まずい沈黙が走った。
「僕も」
 沈黙を破って、ハヤテの口から、嘘が飛び出した。
「僕も、両親が死んで一人なんです。両親の死は謎に包まれたまま。施設に預けられて、たくさんの家を転々として……辛かった。だから一人で出かけられるようになってすぐ施設を出て、働きながら世界を歩き回ってたんです。でも、どこか“我が家”と呼べる場所がほしかった」
 ハヤテはそこでエンシを見た。
「エンシさんの亡くなった息子さん、生きていたら僕ぐらいか……ちょっと年上かぐらいですよね」
「ああ……そうだな。きっと、お前ぐらいの年頃だ」
 ハヤテはにっと笑って見せた。
「じゃあ、僕、今からエンシさんの息子になります。ここが、僕の“我が家”だ」
 エンシはその言葉にそうとう驚いたようで、あごをがくがくと震わせている。
「お前……」
「僕には、お父さんのような人が必要です。エンシさんも僕が息子だと思えば、少しは悲しみも癒えるんじゃないかな」
 演技は完璧だ。ハヤテは満足した。そうだ、涙を流す準備をしなきゃ。エンシに分からないように、軽くあくびをした。
「いいのか、お前はそれで……」
 エンシは目に涙を浮かべていった。
「お前のことを、息子だと思って、いいのか……」
 ハヤテはエンシの手をそっととり、笑顔で言った。
「ええ、もちろんです。……父さん」
 エンシはその言葉に、大粒の涙をこぼすとハヤテに手を伸ばした。二人はひしと抱き合い、そっと静かに涙を流した。
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