凪いだ海に駆ける疾風
はじめに


序章


第一部:潮の香の中


第二部:生き地獄



■1-4#殺された警官■
 次の日、ハヤテ(変装しているので傍目にはサウに見える)はエンシに引っ張られて葬式に出かけた。言うまでもなく、警官タロの葬式だ。
「タロはなぁ、正義感の強い、真面目ないい奴だったんだぁ……あんないい奴が、なんで……」
 エンシは号泣しながら、ハヤテをぐいぐい引っ張って道を突き進む。彼は、少しでも気持ちを落ち着かせるためか、口を動かすのをやめない。
「まだ四十八歳だ! 死ぬには若すぎる! なぜだ……なぜあいつが死なにゃならんのじゃ……サウよ、お前もわしのこの悲しみが分かるだろう?」
「はい……知人を亡くすのは、とても悲しいことです」
 とは言ってみたものの、その声には感情が欠落していた。
(俺が殺ったってことに、気付くはずもねぇか……)
 あの時、ハヤテは老人に変装して、警官を油断させた。この平和な港町では凶悪犯罪などとは全く縁がないし、腰の曲がった老人が相手だったら簡単に気を許してくれるはずだ。そう考え、ハヤテは老人になりきった。案の定タロは全く警戒もせず、ヨゼの屋敷を教えてくれ、そして、簡単に殺された。
(これは、悲劇の序章にすぎないぜ……)
 ハヤテはエンシに気付かれぬよう、密かに微笑を浮かべた。それは背筋に寒気が走るほど、冷酷なものだった。
(この事件で、あいつもそろそろ勘付くだろうか……)
 エンシにぐいぐい引っ張られ着いた家に、ちょうどまた二、三人が入っていった。
「タロは顔の広い男だった。きっと多くの人が、あいつの死を悲しんでいるだろうよ……」
 やっとハヤテの腕から手を放し、エンシは歩き出した。ハヤテはその背中に向かって、言った。
「僕はここで待ってます。僕はタロさんを直接は知らないし、それに、葬式とかって、どうも苦手で……」
 まるっきり嘘でもなかった。人々が嘆き悲しむ姿は、なぜか彼の殺意を駆り立てる。ハヤテの瞳の中にある何かが分かったのか、エンシは無言で頷いて家の中へ姿を消した。ハヤテは近くにあった木の幹に体を預け、ふかふかの芝の上に腰をおろす。しばらく目をつぶり、波の音を聞いていた。
 ふと、聞き覚えのある男の声が聞こえた気がして、はっと顔をあげた。
(……ヨゼ!)
 危うく立ち上がりそうになったが、彼は必死に自制し、何とかその場で動きを止めた。しかし、彼の中では殺意がみなぎっていた。
 ヨゼは、家の陰で、暗い顔をして誰かと話していた。
「今回は、本当に残念でした……タロのようにいい人が……」
 タロの奥さんだろうか。四十四、五歳のおばさんがヨゼの側でハンカチを目に押し当て、悲しそうに泣いている。
「私は、夫を殺した人物を絶対に許しません……許すことなんか、できません!」
 ハヤテは、別に何とも思わなかった。人から恨まれるのは、もう当たり前のこととなっている。慣れっこだ。
「ええ、わたしも犯人を絶対に許しません。人から一番大切な者を奪うなんて、ひどすぎる!」
 その言葉を聞いたハヤテは、我が耳を疑った。
(俺は、今、何を聞いた? あいつ、人から大切な者を奪うなんてひどすぎだ、って言ったのか?)
 激しい怒りが、彼を駆り立てる。いまこの場で、奴の息の根を止めてしまおうか。ハヤテにとって、人間の心臓を止めることは、呼吸をするのと同じくらい簡単で自然なことである。奴を誰一人と目撃者をつくらず殺すことも、容易くこなせるだろう。奴を殺した後で、側のあの女性も葬り去れば問題はない。
 気付くと彼は、ヨゼの方を向き、立ち上がっていた。両の拳をぎゅっと握り締めて。
 視線に気付き、ヨゼがこちらを向いた。
「……おや、見ない顔だね。どちら様だい?」
 ヨゼがハヤテに向かって話し掛ける。穏やかな声だった。その時、ハヤテは妙な感覚にとらわれた。誰かに、似ていると思った。
 ハヤテは無言のままで、ただじっと、ヨゼの少しやつれた目を睨んでいた。しばらくふたりは、じっと見つめ合う状態で静止していた。
「君――……」
 ヨゼが何かに気付いたように、ハヤテに一歩近付く。その途端、ハヤテは弾かれたように、突然、踵を返しものすごい勢いで走り出した。ヨゼはびっくりしたのか、呆然とその場に立ち尽くしている。
(憎い……憎い……!)
 周りの景色がどんどん展開していく。激しい怒りは、彼を、とにかくひたすらに走らせた。
 顔を見ただけで、勝手に手が動きそうだった。だけど、何かが彼を止めた。奴を殺してはいけないと、無意識のうちに警告していた。なぜだ? ――分からない。あんなに憎いのに。
 しばらく走り続け、彼はてのひらに痛みを感じて、足を止めた。強く拳を握ったため、てのひらに爪が食い込んで血が流れている。彼はその傷をペロッとひと舐めし、目を上げた。その行動は、まるで獣のよう……。
(……海?)
 ナギに出会った、美しい砂浜。無意識は、彼をこの場所に連れて来た。彼はふぅっとため息をつき、砂浜にとまっている船の陰に座った。なんだかぼうっとしてしまった。これではいけないと頭を左右に振ってみたが、心の奥にあるしこりはほぐれなかった。再び、深いため息をつく。
(俺は、一体、どうしちまったんだ……)
 両膝を抱え込み、頬をそっと膝にふせる。何だか、寂しかった。両親をいっぺんに亡くした、あの時のような、やりきれない寂しさ虚しさ――……。
 昼の光にハヤテの涙が輝いた。ふと、明るい少女の面影が浮かんだ。彼女なら自分をなぐさめてくれるかもしれない。――いや、それは許されないであろう。清らかな少女を、呪いの渦中に引きずり込むことになってしまう。涙がまた、彼の頬に一筋伝った。

 *

「今の少年――……」
 ヨゼは、思い出しそうで思い出せない気持ちの悪い感覚を味わった。
「……ヨゼさん」
「あっ、ああ、すまない」
 タロの妻は、腫れぼったい目で、ヨゼを見た。
「……話して下さるのか」
 タロの妻はゆっくりと頷いた。
「夫は昨日も変わらず朝を過ごし、交番に出かけていきました。いつもの通り玄関まで見送って、しばらくしてから、私、あの人がお弁当を忘れている事に気付いたんです」
 タロの妻は再びほろほろとこぼれてきた涙を静かにハンカチで拭った。
「昼過ぎに、買い物ついでに交番に寄ったんです。お弁当を持って。だけど、あの人、自分の机で……ぐったりしていて……。駆け寄って、肩を揺すりました。何度も名前を呼びました。それでも動かなかったわ……。あたりにあやしい物、凶器とかがないかと思って見渡したけど、何もなくて……それで夫の体をよく見たら、後ろ首にあざがあったんです。もう、これ以上は私が首を突っ込むところではないと思って、一丘向こうの隣町の、夫の知り合いに電話したんです。その人も警官で、私の気持ちを察してか、町の他の人に気付かれないように、静かに来て下さったの。そうして捜査が始まったけど……その人も、夫の首のあざを指して、死因はおそらく首を強く打ちつけられたショックだろう、って答えた」
「……」
 ヨゼは嫌な予感を覚えた。焦りと緊張が、彼の胸を締め付ける。
(まさか……な……。案ずることはない)
「……ヨゼさん? どうかなさいました?」
「……あ、いや、別に。ありがとう、話してくださって……。すまないね、辛いことを思い出させてしまって……」
 タロの妻は無理に笑顔を作って言った。
「いいえ。こんなことでもお役に立てるなんて、嬉しいです。では、私は戻りますね」
「はい。……お体に気を付けて」
 タロの妻はお辞儀をすると家の中に入っていった。
(……後ろ首のあざ……十一年前と、あまりにも似ている……)
 ヨゼは心の中で祈った。どうか、単なる偶然でありますように、と……。
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