凪いだ海に駆ける疾風
はじめに


序章


第一部:潮の香の中


第二部:生き地獄



■1-6#血まみれの書斎■
 書斎に入ってすぐ、異変を感じた。ドアの真正面にある窓は開け放たれ、カーテンはなぜかビリビリに破れている。しかも、かいだ事もない嫌な臭いがムッと立ち込めて、何とも言えない熱気を感じた。気分が悪くなる。
「……パパ?」
 かすかな音と共に、何かがキラリと光った。しかし、それが何かなんて、見当もつかなかった。とにかく電気を点けようと、手探りでスイッチを見つけオンにする。だが一向に明るくならない。
 ――何かが、変だ。
 悪寒が背筋を走り、ナギは一歩後退った。一瞬、幼い日の光景が光の矢のように頭の中をかすめ、何かに勘付きそうになった。だが、あとちょっとのところでそのひらめきは消える。
 ナギの中の何かが、大きな声で叫んでいた。関わるな! 今すぐこの部屋から逃げ出すんだ。長居してはいけない……危険だ!
 急に、サアァァ……と雨が降り出した。開け放たれた窓から夜の冷気が忍び込んでくる。
 額に風圧を感じた。本能で、何かが凄まじい勢いで迫っているというのが分かった。が、それは急に動きを止めた。おそらく当たる寸前のところだろう。人の気配がした。外では空が絶えずゴロゴロと唸っている。
 その時、まるで真昼間のようにあたりが明るく照らされた。稲妻だ。その途端、ナギは信じられない光景を目にした。ナギの手から落ち、大きな音を立てて、かゆの椀が割れた。
 自分の目の前には真っ赤な血が大量についた鋭利な剣があった。そしてきれいに整理されているはずの書斎は、本棚の本が全て落とされ切り刻まれ、生々しく赤いモノが付着し、酷く荒らされていた。開け放たれていると思った窓は開いているのではなく、ガラスが割られていた。
 稲妻なんて一瞬のはずなのに、その時間は長く長く感じられた。部屋の全てを見渡せ、目の前にいる人の顔もしっかり確認できる程に。
「――あなたは……」
 光が消える間際、青いガラスの瞳が、驚きと後悔の念に包まれていくのを、ナギは確かに見た。綺麗だな、と思ったその人が、今、ナギの前に立っている。
「……どういう……こと……?」
 美しい容姿を持つ青年が血まみれのヨゼの胸倉を掴み、鋭利な刀を持ち、ナギの方を向いて――。
「ナ…ギ……?」
 どさりとヨゼの体が床に落ちた。
 ハヤテが、ヨゼの返り血を浴び、呆然とナギを見つめていた。ナギは信じられなかった。いや、信じたくなかった。これはきっと、何かの事故なのだ。彼が自主的に起こしたものではない。あの父にそっくりなものはただの人形だ。精巧につくられたニセモノ。そうだ。そうに違いない。
 そっと、手をハヤテに伸ばした。途端、ハヤテは弾かれたように後ろへ跳び、ちょっとナギを見つめてから、窓の外へ飛び降りた。
「……!」
 ここは二階だ。ナギは慌てて窓に駆け寄り、下を見下ろした。が、すでにそこには人影などなかった。
 ナギは、へなへなと、力なくその場に座り込んだ。稲妻で再び部屋の中が照らされた。荒らされた部屋の真ん中に、最愛の父が転がっている。血まみれになって――目は大きく見開かれたまま。
 分からない。何が起きたのか、分からない。
「いやあぁぁあああぁっ……!」
 彼女は狂ったように叫んだ。
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