凪いだ海に駆ける疾風
はじめに


序章


第一部:潮の香の中


第二部:生き地獄



■1-5#地獄への扉を■
 次の日。朝から曇り空の、すっきりしない天気だ。
「わっ、三十八度もあるじゃない! ダメだよ、今日はちゃんと寝てなきゃ」
 ナギはヨゼをベッドに戻すと、枕もとに本を置いてあげた。
「パパはちょっと頑張りすぎなんだよ。今日一日くらい休んでもバチは当たらないわ」
「しかし……」
「いいから寝てるの!」
 ナギは強引に布団をかけて、父を休ませた。
「……わ、分かった……ではナギ、レイに、ここに来るよう伝えてきておくれ」
 ナギは頷き、書斎から出て行った。そしてしばらくして、扉がノックされた。
「どうぞ」
 返事をするとゆっくりと扉が開き、レイと、彼の補佐役である若い守護の男アルが一礼して入ってきた。アルはドアの横に止まり、外の気配に気を付けている。それを確認すると、レイはヨゼに笑いかけた。レイは一番の古株の守護だ。もう、ヨゼに仕えて長い。
「旦那様、風邪ですか」
「ああ、そうみたいだな……珍しいこともあるものだ。ところで、お願いがあるのだが、頼まれてくれるか?」
「勿論でございます」
「ありがとう……実は……」
 ヨゼは小声になって、レイに伝えた。
「……と、いうことなんだが……心配だから、しばらく、ナギと私についていてくれないか」
「……そう、ですか」
「ああ。単なるわたしの思いすごしであったらいいが、やはり心配で……」
「あの時の旦那様のご心痛……わたしもよく存じております。あのような悲劇は、もう二度と、起きてはいけない。わたしも、旦那様と一緒に戦います。
 ところで、お嬢様にはアルがつきますが、よろしいでしょうか? まだわたしの指導の下から離れていないと言えど、彼はもう立派な一人前の守護でございます。それにお嬢様は、アルのことを兄のように慕っておりますし、わたしがつくより気が楽かと思います。お嬢様は彼に任せ、ヨゼ様にはわたしがつかせてください」
「わたしのことは、どうでもいい。ナギが心配でたまらない。二人でナギを見ていてもらいたいくらいなのだ……」
 ヨゼのその言葉に、レイはぴしゃりと言った。
「旦那様、これだけ言わせてください。旦那様がお嬢様を亡くすのがこの上なく辛いのと同じように、お嬢様も自分の父親を亡くすことは身を引き裂かれるような思いでございます。ですから、ご自分のことをどうでもいい、などとおっしゃらないでください。もしご主人様を失うようなことがあれば、あの天使のようなナギ様の笑顔は二度と戻ってこないでしょう」
 レイはそこでいったん言葉を切ると、しばらく考え込んで再び口を開いた。
「では、こうしましょう。お嬢様が外出なさるときはこのレイがつきます。家の中では、お嬢様はアルが、ご主人様はわたしが守護いたします」
 ヨゼは黙っていたが、やがて納得した。
「そうだな、お前の言うとおりにしよう。その方法なら安心だ」
「お任せください」
 ヨゼは目をつぶった。
「ありがとう……頼りにしている」
 レイが書斎の扉の前に立ち、アルがナギの部屋へ向かったのを確認すると、ヨゼは微笑み、静かに眠りに落ちた。

「えーっ!」
「ナギ様、大声を出さずに。屋敷の者がびっくりします」
「だって……! なんで家の中でも守護につかれなきゃならないのよ?」
 アルは困ったように言う。
「ひどい言いようですね……ご主人様がそうおっしゃったのですから、我慢してください」
 ナギは頬をふくらませて、ベッドの上に倒れこんだ。
「ちぇーっ」
「まあまあ、そう怒らずに。ちょっと警戒しておくというか、そんなに厳しい警備はしないようにとのお願いでしたから、外出のときよりは自由に出来ますよ」
「はいはい、分かりましたよーだ」
 そう言うと、ナギは手元にあった本をパラパラとめくって読み始めた。
「……また朝食が近くなったら、声をかけますね。それまでは部屋の前で待機していますから。……お願いだから、おとなしくしていて下さいよ」
 アルの必死のお願いに、ナギはため息をついた。
「分かってるって! もう、信用ないんだから」
「自業自得です。ナギ様にはたっくさんの前科があるんですからね!」
 アルは、ハハハ……と笑いながらナギの部屋から出て行った。
 ナギは閉まった扉に向かって舌を出しながらも、今日だけはお転婆をやめようと思った。風邪の父に心配を掛けたくなかったからだ。今日は、パパの看病をしっかりしよう、と。
 しばらくして、アルがナギの部屋の扉をノックした。
「ナギ様、朝食です。食堂へ」
「うん。今行く」
 きりのいいところでしおりを挟み、本を閉じた。食事が終わったら、また読もう。
 食堂の席につき、朝食を食べる。普段通りトーストをお腹いっぱい食べ、部屋に戻った。部屋まではアルがついてきた。
「なんだか今日は、おとなしいですね。ナギ様も風邪ですか?」
「失礼ね! 私だって静かなときはあるのよ。……私ね、今日だけはお転婆やめるんだ」
「また急に、なんでそう思うんです?」
「パパ、きっと色々なことで疲れたんだと思うの。タロおじさんが亡くなって、それに最近、仕事が忙しそうでしょ? 精神的な面でもくたくたなのよ。だから、風邪をひいている間は、パパに心配掛けないようにしようと思ってさ」
 アルは優しく笑った。ナギも振り返り、笑った。部屋に着くと、アルはそのまま扉の前に立っているだけだった。
「なんか思ったより窮屈じゃないかもなぁ。普段もこれくらいなら、私だって嫌じゃないのに」
 ナギは部屋でごろごろしていた。そのまま、お腹がいっぱいだったこともあり、寝てしまった。

 *

 辺りは薄闇に包まれている。朝から垂れ込めている空の雲はさらに分厚くなり、怪しく動いていた。そんな時、やっとナギは目覚めた。
「やだ、もう暗くなってる! 私、朝からずっと寝ちゃったんだ……」
 時計を見ると、午後六時を過ぎたところだった。昼ご飯も食べていないので、ナギのお腹はぐぅとなった。
 気配に気づいたのか、アルが扉をノックした。ナギが返事をすると、彼は頭だけのぞかせた。
「ナギ様、やっとお目覚めですか?」
「うん、だいぶ寝ちゃってたんだね、私……」
「腹ペコでしょう? 夕食がもうすぐできるそうだから、食堂に行きましょう」
 アルのあとにくっついて食堂に行くと、厨房で料理長が鍋で真っ白なおかゆをつくっていた。
「ねぇ、料理長さん。それ、パパの?」
「ええ、そうですよ。風邪をひいたときは、やっぱりおかゆが一番でしょう」
「それ、私がパパのとこに持ってくよ。あとどれくらいで出来る?」
「おや、珍しい。そうですね……三十分もあれば、出来ますよ」
「分かった、じゃあ待ってる」
 ナギは食堂のイスをひき、腰掛けた。長い間眠っていたせいで、頭がモヤモヤとしている。その時、空がぴかっと光った。
「雷だ……」
 黒い雲が時折、青白い光に包まれる。まだ音が聞こえないところしてから、遠いのだろう。しかし、雨が降るのも時間の問題というのは、分かっていた。ナギは不定期に輝く暗い空をぼうっと見つめていた。
「ナギ様……ナギ様、起きてください」
「!」
 また寝てしまったらしい。シェフが熱々のおかゆを手に、ナギを起こした。
「できましたよ。ヨゼ様のところへ、持っていって下さるんですよね?」
 ナギは目をこすり、顔をこすった。そうすることによって、少し眠気を飛ばす事が出来た。シェフから盆を受け取ると、ナギは食堂を出て、ゆっくりと階段を登った。途中で執事に会い、褒めてくれた。
「パパ、おかゆよ」
 ノックをしても、返事がない。
「パパ?」
 部屋は静かだ。
「……寝てるのかな」
 またドアをノックしてみたが、やはり返事はなかった。
「……入っちゃうよー」
 ナギは取っ手に手を掛け、ゆっくりとドアを開けた。


 そのドアが地獄へ続く扉だったと、その時、どうすれば分かっただろうか……。
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